疑似歴史学(2)
V.各学問分野における現在までの成果(作成途上)
【形質人類学】
・現在の日本人の顔は非常に多様である。
・現在の日本人の頭長は平均196〜182ミリ、頭幅は平均156〜147ミリで、頭長幅指数は77〜86である。これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。
・縄文人は、長頭、低顔、広顔で、眼の上の隆起が強く、鼻根が陥没している。成年男子の平均身長が158センチで、四肢ががっしりしていた。
・弥生人は男子の平均身長が163センチと背がやや高い集団であり、短頭、高顔、面長で鼻筋がとおっている。
・山口県豊浦郡豊北町土井ヶ浜で発見された200体以上の人骨のうち、成人の男は弥生人の特徴を持ち、成人の女は縄文人の特徴を持ち、子供は両方の中間の特徴を持っていた。
【医学・生物学】
・HBVはadr、adw、ayr、aywのサブタイプに分けられる。その型は各地域に特徴ある分布を示している。関東以南ではadrが多く、以北ではadwが多い。中国や朝鮮半島ではadrがおおい。
・ATLウィルスのキャリアは、日本列島中心部にはほとんど認められず、離島や海浜、山間部に多く、もっとも濃厚なのはアイヌ人と沖縄の人々である。
・日本人の耳垢には湿っているか乾いているかの2種に区別される。
・ABO血液型の分布は、民族・人種ごとに異なるが、日本人の場合、A型が40パーセントと云われる。しかし、これは地域によって異なり、埴原和郎氏の指摘によれば南から北への傾斜を持っている。
・ミトコンドリアDNAから見ると、日本人は2つの集団に分かれている。
・日本人の家畜である猿、猪と豚、ウズラ、犬、ニワトリ、馬、牛、猫、肉用ヤギ、水牛などは、大部分が南方系であるものの、一部北方系の混在もある。
・家族を形成しているネズミの群に、他の群のネズミを放すと殺害されてしまう。そして、人間の社会構造はネズミのそれと大変よく似た構造をもつ。(ノーベル賞受賞者動物行動学のコンラート・ローレンツ博士)
・『獲得形質の遺伝』があり得ないことは遺伝学では常識以前である。
【考古学】
・現在普通に使用されている編年は放射性炭素同位体を利用した測定法や、その他の指標を組み合わせて得られたもので以下の如くである。しかし、最近、これらの編年をくつがえすような年代測定値がいくつか公表されている。
縄文時代 1万2500年前〜2300年前
(紀元前1万500年〜紀元前300年)
草創期 1万2500年前〜1万年前
(紀元前1万500年〜8000年)
早期 1万年前〜6千年前(紀元前8000年〜4000年)
前期 6千年前〜5千年前(紀元前4000年〜3000年)
中期 5千年前〜4千年前(紀元前3000年〜2000年)
後期 4千年前〜3千年前(紀元前2000年〜1000年)
晩期 3千年前〜2300年前(紀元前1000年〜300年)
弥生時代 紀元前3世紀〜紀元3世紀半ば
前期 紀元前3世紀〜2世紀
中期 紀元前1世紀〜紀元1世紀
後期 紀元2世紀〜3世紀半ば
古墳時代 紀元3世紀半ば〜7世紀
前期 紀元3世紀半ば〜4世紀(〜400年)
中期 紀元5世紀(400〜500年)
後期 紀元6世紀(500〜600年)
終末期 紀元7世紀(600〜700年)
・縄文人は、リョクトウ、シソ、エゴマ等の雑穀類を栽培していたが、主食にするほどの量ではない。
・弥生時代には主にイネを、村全体で大量に生産していた。
・B.C.300ごろ 高床倉庫が出現。九州北部に支石墓が出現。
・B.C.200ごろ 九州北部で銅剣・銅矛・銅戈・銅鏡を副葬した墓が出現。青銅製の武器の生産も始まる。
・C14測定法の精密化により、従来、今から1万2500年ほど前に始まるとされてきた縄文草創期の土器が、1万6500年ほど前のものと判明した。(縄文草創期の上限が4000年ほど引き上げられた。)
・木の年輪を利用した「年輪年代法」により、大阪府の池上曽根遺跡の大型建物(弥生中期後半)の創建年代が紀元前52年頃と判明した。(弥生中期後半が紀元後1世紀が100年ほど引き上げられた。)
・縄文文化は、東日本中心の文化である。
・弥生文化は、西日本中心の文化である。
・縄文より弥生・古墳時代に並行する時代にいたるまで、東北北部と北海道南部はつねに、共通の文化圏に属していた。
【中国考古学】
・中国・長江下流域、淅江省寧波市近郊の農村にある河姆渡遺跡は、約7千年前の遺跡で1977年の調査によって高床建築を示す柱、炭化した米が出土した。
・復元された高床式家屋は、竪穴式住居よりもはるかに現代の日本の住居にちかい。
・河姆渡遺跡の炭化米は、DNA鑑定などで栽培の痕跡が残っていた。そのことから、稲作文明は、雲南・アッサム地方ではなく長江流域が起源の可能性がある。(静岡大農学部、佐藤洋一郎助教授)
・河姆渡には、その遺物から鳥への信仰の形跡がみられる。
【世界史・中国史】
・被征服民族の男は皆殺しにされ、女は征服者のなぐさみものになったり、子を生まされるという現象は人類の歴史上普遍的に見られる現象である。
・商(殷)王朝は狩りと称して西国の異民族である羌を捕え、奴隷としたり牛や羊や豚と一緒に生け贄にしていた。
・後半のBC403〜221年までを戦国時代と呼ぶ。
・BC770〜403を春秋時代という。春秋時代には、周王の権威は名目的に保たれたが実権はなく、二百程度の小国が併合を繰り返し四十程度の諸侯国にまとり、有力な諸侯は尊皇攘夷を唱えて諸侯の同盟を進め、周辺民族への支配を正当化した。
・春秋時代の有力な諸侯には、斉の桓公、秦の穆、宋の襄、晋の文、楚の荘、呉の闔閭・夫差(BC495〜473)、越の勾践(BC496〜465)がいる。
・長江下流域江蘇省の蘇州を中心に呉が興り、次いで浙江省の紹興を中心に越が興った。
・呉の闔閭は、越の勾践との戦いで殺された。闔閭の子、夫差は一旦は、越の勾践に勝ったものの、後に敗れ、呉は滅びた(BC473)。
・越王勾践が、BC473に呉の夫差を破ってから、越は山東半島の西南邪琅に遷都したが、BC333年頃、楚に滅ぼされた。当然、越人の難民が発生したと思われる。
・秦が強大になり、BC256年に名目的な周を滅ぼし、さらに他の六諸侯国を滅ぼし、BC221年に中国全土を統一した。
・秦の始皇帝はBC219年、邪琅の地から徐福を東方に派遣した「史記」「漢書」。
・徐福は平原大沢を得、そこで王となった。「漢書」「呉書」
・A.D.57 倭の奴国王が後漢に朝貢し、光武帝より「漢委奴国王」の金印と紫綬を授かった。
・239 卑弥呼が難升米らを魏に遣使、魏の明帝より「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡100枚を授かった。
・248ごろ卑弥呼死に男王が立ったが国内服さず、卑弥呼の宗女で13歳の壱与が女王となり治まった。
【記紀神話・日本史】
・記紀神話は国津神と天津神とを区別している。この区別は記紀神話の本質的な部分を構成する主張である。
・記紀は、天津神は天から来たものであり、国津神は先住の神であった旨明記している。
・記紀は、先住の国津神の子孫達を天津神の子孫が征服する物語を載せている。
・記紀は南九州の熊襲・隼人と北の蝦夷などを自分たちとは身体的特徴の違う異族であると主張している。
・続日本紀、日本後記もまた蝦夷は言葉も通じない異族である旨明記している。
・大和朝廷は百済との関係が深かった。
・百済は仏教を始めとした多くの文化を伝えたり、優秀な人材を多く派遣した。
【民俗学】
・現在の日本列島の文化には明らかな東西差が存在する。
・東北北部にはアイヌ語地が名集中的に残されている。
・東北のマタギや狩人達が使う山言葉の中に複数のアイヌ語が含まれている。
【民族学】
・河姆渡遺跡が発見されるまで稲作発祥地とされていた雲南省には、高床式の住居で知られる「百越系」のタイ族などがいる。
・雲南省南部に居住する、言語などからチベット系とされるハニ族の家もタイ族と同じ高床式である。
・集落の入り口には鳥の彫刻を上にとまらせた門、「鳥居」がある。この門とよく似た「鳥居」は吉野ヶ里遺跡などで見られる。
・ハニ族は「民族の歴史と稲作の歴史は同じだ」という。
・雲貴高原には日本とよく似た神話を持つ事で知られるナシ族が居住している。
・雲南省南部からタイ北部へかけて広く分布するダイ・ルー族は、稲作を営み、住居は木造もしくは竹を用いた高床式で、生活や習俗に日本とよく似た点がある。