蝦夷(エミシ)とアイヌ

1.蝦夷(エミシ)はアイヌか
 奥州藤原氏が栄えた平安末から鎌倉の日本では、蝦夷地とは北海道ではなく東北を指した。蝦夷(エミシ)とは、東北人のことであった。しかし、「日本単一民族論」の支持者や、異族の子孫であるとは思いたくない東北地方の人たちは、「エミシ≠エゾ=アイヌ」であると主張している。

2.大和朝廷と「異族」
 大和朝廷(ヤマト王朝)は、この列島に住んでいた異族を次々に征服していった。北方の異族は「蝦夷」と呼ばれた。南方では「熊襲・隼人」がいた。東北地方から出土する数多くの遺跡を見ても、南九州の縄文遺跡を見ても、彼らが縄文時代から高い文化を築いていたことが分かる。各地の山人や海人中にも、異族がいた。彼らは農耕に従事しないで、狩猟や漁撈などの自然採取で生活していた。各地に「土蜘蛛」と賤称された人たちが散在していたことは文献史料に出てくる。大和朝廷は、彼らを「夷人雑類 (いじんぞうるい)」と呼び、「まつろわぬ者」「化外(けがい)の民」として差別した。
 このように、「蝦夷」は朝廷側からみたとき同じ人間としては認識されていなかった。「蝦夷」とは一体何者なのか。

3.「蝦夷」は大和朝廷支配下の人々と人種的に同じか
 『日本書紀』の景行天皇40年7月18日条によると、「蝦夷は、竪穴住居に男女が生活し、夏の家を持ち、また毛皮を着け、血を飲む。山野の行動は極めて敏捷で、矢を髪の中に差し、刀を衣の中に帯び、農桑の時を伺って人民を略奪している。」とある。また、同斉明天皇5年7月3日条の、唐皇帝と遣唐使との間に交わされた蝦夷に関する問答のなかには、「蝦夷は五穀を持たずに肉を食し、深山の樹元を住みかとしている」と表現されている。すなわち、『日本書紀』における「蝦夷」の生態は、農耕を知らない未開かつ野蛮な狩猟民という一貫した表現をもって描写されている。
 一方、青森県弘前市の砂沢遺跡から弥生時代前期(紀元前2、3世紀)の水田遺構が発見されるなど、東北地方にも弥生時代以来稲作が存在したことが確認されており、東北地方各地に稲作農耕の段階に到達した集団がいたことは確実である。このことから、日本書紀の記述は小中華思想に基づいて「夷狄」に対応する存在を必要としていた大和朝廷側の政治的な捏造であるという主張がある。服属国を従える帝国の構造を創出するための夷狄の設定がなされていたと考え、さらに、古代における大和朝廷の東征が、服属の事実を体現するために行われたとするのである。

4.「蝦夷」は政治的概念か
 「蝦夷」は人種的な概念ではなく政治的概念であるとの主張にみられるような、現在の日本人の祖先は皆ヤマト民族という同一の民族であるとする考え方、いわゆる「日本単一民族論」は影が薄くなってはきているとはいうものの、一般に根強く信じられている。
 人類学においても、蝦夷=アイヌ論が明治の初期には優勢であったものの、「蝦夷研究が歴史学の研究テーマとして真に確立するためには人類学的な問題関心から解き放たれることを出発点としなければならない」との主張がなさるなど、「蝦夷」という概念は人種的意味を含まず、ただ古代国家の東北部辺境に居住し、時に抵抗を展開することによって中央政府の秩序のもとに組み込まれることを拒否した集団のことを意味するのだという見解が優勢になってきた。なかには、大和朝廷が民衆に対して「中華思想における夷狄を作り出すことを目的に」人種論的蝦夷観を生じるように情報操作をしたという主張まである。

5.北海道にもある縄文遺跡
 縄文遺跡は日本列島に広く分布している。特に東日本や東北地方に多い。青森市の三内丸山遺跡は、約5500年前から約1500年間にわたる約500人規模の集落跡である。巨木を用いた建造物、祭祀儀礼を含む施設の計画的配置、漆工芸の技術、クリなどの栽培などに見られるように、かなり高度な定住文化を営んでいた。そして、北海道にも多くの縄文遺跡がある。このことを案外知らない日本人は多い。弥生文化はついに北海道に及ぶことはなく、北海道には続縄文文化と呼ばれる文化が縄文文化を断絶なく引き継いでいったのである。そして周知のように北海道には江戸時代まで蝦夷(エゾ)と呼ばれたアイヌの人々が「昔」から居住しているのである。
 さらに、多分に主観的な判断ではあるが、近現代のアイヌがいろいろの物に彫り付け、彼らの衣服であるアツシの裾などに縫い取りしているアイヌ模様と縄文式土器の文様の類似を指摘しておきたい。

6.「蝦夷」とは通訳がなければ話しも出来なかった
 大和朝廷支配下の人民と蝦夷とは通訳を介さなければ話も出来ず、たまたま「夷語」がはなせる百姓がそれを利用して悪さをしたという話が「続日本紀」や「日本後記」に記載されている。また、唐の使者が我が国を訪れたときの歓迎式典には、一般の儀仗兵のほかに隼人や蝦夷も儀仗兵として参加させられている。さらに、遣唐使が唐の皇帝に見せるためだけのために蝦夷をわざわざ大陸にまで万里の波濤を越えて連れて行っている。朝廷は多民族を支配していることを外国に示したかったのであろうが、これは蝦夷の人々が一見しただけで大和朝廷の支配下の人々とは人種民族が異なることが分かったためだと思われる。

7.日本語の起源
 日本語の基層には南島語系がかなり入っているが、文法構造は北方語系である。おそらく、北方系民族が政治と文化の領域において支配権力を握るようになったからであろうと思われる。アイヌ語の系統関係については今日ではまだ結論が出ていないが、その基層にはやはり南島語が入っている可能性が強いという。
 ある地域に文明的・軍事的に強い集団の新しい言語が入ってきて、以前から住む人がふるい言語を忘れて同化しても基層言語として新しい言語体系の中に残っていくという。大山元『古代日本史と縄文語の謎に迫る』(きこ書房、2001年7月)によれば、縄文時代の日本列島においては、「縄文語」が使用されていた。そこに違った言語を持つ人々が流入した結果、北のほうに残った縄文語の末裔がアイヌ語として現代に受け継がれ、列島の中央部では古層の縄文語の上に新たな流入言語が重なって現代日本語につながる言葉が使われるようになったという。

8.ミトコンドリアDNAと日本人の起源
 人類学・民族学・考古学・地誌学・古生物学などの著しい進展によって、「日本人」が、世界人口の60%以上を占めるモンゴロイドの諸分流の混合体であることが明らかになってきた。母親から子に受け継がれるミトコンドリアのDNAを利用した研究によって、太平洋を隔てたアンデスの先住民と日本のアイヌや沖縄の人々との近縁関係や「日本人」が多様な人々の複合であることが明らかになってきた。渡来してきた諸集団の道筋や年代も詳しく辿れるようになってきた。
 日本列島の文化は、海のルート・陸のルートを通って、東南アジアや東アジアをはじめ、北アジアや西アジアなどの各地方から入ってきた人々が持ち込んできた諸文化の複合体として生成されてきたのである。ヒトが移動する際には、衣・食・住の生活習慣をはじめ自分たちの文化を携えていく。新天地での環境が大きく変われば、それに適応するためにその文化を変容し、あるいはやむをえず放棄する場合もある。新天地の文化が優れていると分かれば、その地の先住民と交流してその生活民俗を積極的に取り入れ、より高い生活環境を目指すことにもなる。
 このように先住民と新しく渡来してきた人々の間で、交流と混血が進められていく。その過程では血なまぐさい抗争が繰り返されて、両者の間に「征服・被征服」の関係が成立する場合も多い。そして、征服された側は、マイノリティーとして中心部から排除されていく。新しい渡来文化は、在来系の文化と融合していく。文化の融合は、在来系優位に進められていくこともあるものの、新しい渡来系の方が優勢となって、在来系を駆逐したり併合してしまう場合がしばしばである。例えばこの列島の「縄文系」と「弥生系」の場合では、新しい渡来文化である弥生系の優勢のもとに複合が進められていき、先住民であった縄文系は辺境の地に追いやられていった。この縄文人の比較的純粋な直系の子孫こそが古代東北地方の蝦夷であり現在のアイヌの人々なのである。



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