津田左右吉と単一民族神話

1.「日本人」の成立

 ショナル・アイデンティティは、同集団の構成員に対する一体感ないしは同一感と他集団の構成員に対する差異の感覚より構成されている。「日本人」としてのナショナルアイデンティティは、十八世紀から十九世紀にかけて、「国学」をはじめとする自民族中心主義的・排他的思想の出現と西洋からの強烈な脅威によって出現し、明治政府の意図的政策により、初めて国民全体に広まった。

2.単一民族神話の浸透
 面を海で囲まれている日本列島は、文字通り『島国』である。それ故、とかく日本列島の歴史と文化はこの列島内部のみで形づくられたかに考えられやすい。渡来の文化は認めるが、渡来の集団とその役割を認めないという風潮、日本民族を単一民族とみなす考え方は、いまもなお日本の政治家・官僚のみならず、多くの人々の中に根強く生き残っている。これこそ、一九一〇年代から日本の歴史学会、考古学界の保守本流の考え方である。複合民族説にかんする研究史を全くかえりみることなく、実証的な歴史学や考古学・人類学などの研究成果を無視した考え方である。そうした見方が誤っていることは、今や種々の研究成果からも明らかである。例えば、吉野ヶ里遺跡出土の埋葬人骨300体あまりの人類学的考察によれば、その多くが渡来型人骨である事に象徴的である。また、日本文化の成り立ちが複合文化であったことは、柳田国男や折口信夫らの民俗学的研究によってもはっきりみきわめることができる。

3.記紀は全くの「作り話」か
 国では王朝が変わるたびに現時点の政府の正当化のための歴史書が出される。しかし後世に残るものであるから、まったくのウソは書かない。だから、表面的には現王朝に都合よく書かれてある記述でも真実がちりばめられている。中国では、誤魔化し、暗号、思わせぶり、矛盾する歴史記述が技術として評価を受けるということになった。
 和辻哲郎は、「記紀の材料となった古い記録は、たとえ官府の製作であったとしても、ただ少数の作者の頭脳からでたものではない。弥生式文化の時代からの古い伝承に加えて、3、4世紀における第2次の国家統一や、5世紀における国民の発達の間に、自然に囲まれてでた古い伝説が、6世紀を通じて無数の人々の想像力により、この時代の集団心に導かれつつ、漸次形を成していったのである。奈良期に至って、最後に編集される際に、特に明白な官選色彩を帯びさせられたとしても、それは、物語の中核をまで変えていない。」という(『新稿 日本古代文化』、岩波書店)。作り話と言っても、まったく事実と関係ないものはあり得ないのだ。お話の作り手は、必ず実在の人や事件等をもとに話を書く。まったくの無からお話を作ることはない。有名な神話に「出雲の国譲り」がある。最近までこの出雲王朝は架空のものと言われてきた。しかし多数の発掘物が出てくるに従い、現在では、出雲に大きな政治勢力が存在したことは確実視されている。シュリーマンのトロイのように神話が事実となりつつある。
 いわゆる、皇国史観のバイブルは「日本書紀」であるが、日本書紀には表向き王家を崇めながらも、実はかなり冷淡な描写をしている部分がかなりある。残酷でひどい天皇やら、神様に逆らったから天罰で死んだ天皇、血筋が途絶えた(?)ので北陸から別の大王を大和に迎えたという記述もある。「日本書紀」の「神武東遷」は全然勇ましくない。むしろ、かなり情けない進軍である。一度畿内に乗り込んだものの地元のボスに敗れ親族を失い、迂回して和歌山の山中を狩人に助けて貰いながら抜け、やっと少人数が大和に到達、相手の仲間割れによってやっと迎えられるという有様である。天皇家絶対の書物ならもみ消すべきところだ。戦後、皇国史観を嫌うあまりその元となった「記紀」は排斥された。
 『古事記』や『日本紀』に書いてあっても、その一つ一つの事実について、性質、内容を調査しなければ、確かだと断定することは出来ない、しかし、逆に一つ一つの事実について性質、内容を科学的に調査して、実在性が高い記述として認められれば史実として採用されて良いはずである。

4.「国体論」のニューバージョンとしての津田説
 「日本は天皇を親とし国民を子とする家族国家である」という思想を「国体論」という。国体論は江戸時代の国学者に源を発し、国民の団結にじゃまになるような異質者の存在を認めない。これに対して、江戸時代から「列島の住人が朝鮮半島からやってきたものの子孫だ」とする説もあった。新井白石は、「我が国の先は馬韓に出でし事」の可能性を検討し、熊襲と高句麗は同族ではないかと考えたらしい。また一七八一年、藤貞幹という儒学者は、記紀神話のスサノヲはもとは辰韓の王であり、神武天皇は中国の呉の太伯の末裔だと主張した。藤によれば、神武の時代は列島の言語や風俗は朝鮮風のままだったが、神武天皇の系統は断絶し、応神天皇以降は別系統だという。当時の国学者達はこれに激怒し、本居宣長は藤の説を「狂人の言」と決めつけている。
 明治時代、モースの教えを受けた人類学者の見解は、それまでの国体論における単一民族論を圧倒した。人類学者は「人類学のほうが先進的で科学的である以上、それを取り入れないと、国家の独立が保てない」と国体論を一蹴した。これに古代史学者も加わり、日本には古代にも多くの渡来人がやって来たが、そうした異人種を同化して日本人にしてきた歴史があり、その経験は台湾や朝鮮の同化に生かせるといいはじめた。こうして、むしろ混合民族論のほうが帝国主義的領土拡張の時流にかなうものになった。そして、その延長上に「日鮮同祖論」があった。日鮮同祖論は、「もともと、天皇家の祖先が朝鮮半島から渡来してきたという説だったのだが、そのうちに日本列島と朝鮮半島は古代は一つの国で、言語的にも人種的にも同じだったのだから、ふたたび朝鮮と日本を一つの国にして天皇家の領土に組み込むのは当然だというような論調に変形」されたのである。
 一方、日本人は純粋な単一民族だという論がおもに優生学者により一九二〇年代ころ細々と提唱された。京都帝大医学部の清野謙次は、石器時代の発掘人骨は現代アイヌにも現代「日本人」にも似ていないが、その後の進化と南北隣接の人種との混血により現代日本民族になったとし、その後、次第に石器時代人は「日本人の先祖」だと主張するようになった。清野の説は、記・紀神話を打破したいマルクス主義系歴史学者に支持された。
 戦後になって、単一民族説が台頭した。これには清野や長谷部言人の説とともに津田左右吉の「記・紀神話論」がマルクス主義者に高い評価を受けたことが大きく作用した。戦後の古代史学に与えた津田左右吉の影響の大きさは計り知れず、「単一民族神話」の形成に果たした役割は実に大きいものがある。しかも、津田は大日本帝国の神聖不可侵の神話だった記紀に冷静な分析のメスを入れ、「作り物語」であることを立証した「進歩的」学者として今日でも極めて評価が高い。津田の説は「科学的、実証的」であるとされ、すべての日本史学の出発点のごとく称されたのである。
 一九〇二年に津田左右吉が編纂した歴史教科書では混合民族論がとられ「民族同化力」が誇られていた。だが日露戦争と日韓併合を経て、彼は単一民族論に転換した。津田は一九一三年の初著作『神代史の新しい研究』において記紀が史実とはとうてい考えられない「作り物語」であることを説き、古代において天皇家と臣民が血族だという思想が生じた理由として、「事実において我が国民が人種を同じくし、言語を同じくし、風俗習慣を同じくし、また閲歴を同じくしている同一民族であるからであり、従って、皇室と一般氏族との間が親愛の情を以て維がれてゐるからである」と述べている。
つまり、津田は記紀を史実と見なさないことで単一民族論を主張しようとしたのである。この事は、一九一九年に出版された『古事記及び日本書紀の新研究』で、一層鮮明となった。まず、冒頭の序章で、津田は「世間には今日もなほ往々、高天原とは我々の民族の故郷たる海外の何処かの地方のことであると考へ・・・さういふ考から天孫民族といふような名さへ作られてゐる。さうして其の天孫民族に対して出雲民族といふ名前も出てきてゐるが」と前置きし、「本文には少しもそんな意味は現はれてゐず、どこにもそんなことは書いて無い」という。「神武天皇東征神話」も、「ヤマトタケル」の命の西伐東征」も、「神功皇后の新羅征伐」も、「全てが空想の物語」だということであった。またスサノヲの新羅渡行は後世の加筆にすぎず、神功皇后の祖先とされる新羅王子アメノヒボコの列島渡来の記述も、「一つとして考えられるべき事が無い」という。こうして自動的に、日鮮同祖論と、天皇家に朝鮮系の血統が流入したという説が否定された。
 さらに、「蕃別の家の系譜について」という論文では、新撰姓氏録に載っている渡来人系とされる氏の多くは、じつは「彼等が純粋の日本人であるにかかはらず、その祖先をシナ人または半島人とすることが行はれた」結果にすぎないとした。この論文では、渡来人が多数やってきたという説の論拠とされている「古典の記事は歴史的事実としては信じがたいもの」とされ、坂上田村麿も渡来人の子孫ではないという。

5.津田史学は科学的か
 津田左右吉
 んとうに津田史学は「科学的で実証的」なのであろうか。池田宏は『古代史学に対する疑問』において津田史学の「非科学性、非実証性」を完膚無きまでに実証している。
以下にその要約を記す。

日本書紀、崇神天皇十七年の条に、
−−−詔して「船は天下の要用なり。今、海の辺の民、船無きに由りて甚だ歩運に苦ぶ。其れ諸国に令して、船舶を造らしめよ」とのたもう。冬十月に、始めて船舶を造る。−−−
とある、
これについて津田は、
−−−船がこれまで無かったはずは、勿論ないから、これもまた船の起源を此の天皇の代に付会したものである。(事物の起源を古代の君主に関係させて説くのは、多分シナの古史の模倣であろう。またもし此の記事を船が少なかったから造船を奨励したのだとか、新しい製造法を教へたのだとか、説くものがあるならば、それは神代史の埴土を以て舟を作るとあるのを解して、埴で木を塗ったのだとか何処かを填めたのだとかいふのと同様、牽強なる合理的解釈の試みであって「始造船舶」とあり「以埴土作舟」とある一点の疑も無い明文を恣に改作するものである。)−−−(日本古典の研究、上)

 さて、記紀のストーリー中の最大のヤマ場は神武東征であるが、そこには、神武天皇が日向から、筑紫、安芸、吉備、浪速、熊野と海上を「舟」でやって来て、熊野で上陸し大和入りしたと明記されている。なぜ日本書紀の編纂者たちは、神武天皇の十代もの子孫である崇神天皇の代に船の起源を付会しなければならないのであろうか。船の起源を付会しようとすれば、当然神武東征の前に持って行くのが当然であろう。津田は、このようなツジツマの合わないストーリーしか考えつかないほど書記編纂者たちは愚か者の集団であったとでもいうのであろうか。
 「始造船舶」とは「始めて舶を造船す」または「始めて船舶を造る」以外には解釈のしようはない。「舶」とは崇神朝以前にあらわれる、船、舟、艇、とは異なるものであって、大ぶね、海を渡る大船のことである。広韻には「舶海中大船」と、集韻には「舶蛮夷汎海舟曰舶」とある。また、和名抄にによれば、海洋を航行する船を舶といい、これを「つくのふね」と呼んだとある。要するに書記のいいたかったことは、外洋船(つくのふね)を崇神十七年十月に始めて造った、ということなのである。つまり、後年、遣唐使や遣隋使を中国大陸まで送迎し、ときには隋使裴世清や鑑真和上を日本列島まで乗せてきた「つくのふね」の第一船は、遠く崇神天皇の御代に造られた、と日本書紀は伝えているのである。
「進歩的」学者津田の説「科学的、実証的」説の根幹は、「わが国の文字は四世紀後半に始めて伝来した、それ以前には何らかの記録術もあったはずがない。従ってそれ以前の記紀の記載については、記憶の存した時代までは事実があるとみとめてよいが、記憶の不確かな時代以前の記録は後世の述作である。」という点にある。これこそが戦後の歴史界に甚大な影響を与え、「津田史学は科学的、実証的だ」という言説の根拠となっているところである。

(1)魏志の倭人伝に於いて、もしツクシ人が記録の術を知ってゐたといふ推測をなし得る材料があるとするならば、それは卑弥呼が上表したといふ一点のみであるが、これとても実際ツクシ人が書いたとしなければならぬことではない。魏使によって上表したとすれば猶さらであって、儀礼を整へるためにシナ人に依託して書かせた、とも解し得られることは、ヤマト朝廷がシナの南朝と交通するやうになってからでも、もし文書を用ゐたとすれば、やはり彼等が起草したとしなければならぬことからも、類推せられる。

 要するに、「倭人伝の中に、倭人が文字を知っていたとする材料は、卑弥呼が上表したという記録のみであるが、これをもって倭人が文字を知っていた、と断定するわけに行かない。シナ人に代筆させたとも考えられるからである。」、すなわち「三世紀の倭人は、文字を知っていたかもしれないし知らなかったかもしれない。」と述べているのである。

(2)前章に述べた如く、百済のヤマト朝廷と交通し初めた時代が、四世紀の後半の或る時期であったとすれば、百済人によって文字の伝へられたのも、また同じころでなくてはならぬ。応神朝に阿知吉師和邇吉師が来たといふ話をそのまま事実として認めることはできないが、我が国と百済との交渉の生じた時期から考えて、かう推測せられる。従って我がヤマト朝廷で作られた最古の文献は、如何に早くとも、四世紀の末期にできたものであろう。(『日本古典の研究』、上)

 ここでは、「前章に述べた如く、百済のヤマト朝廷と交通し始めた時代が、四世紀の後半の或る時期であったとすれば、百済人によって文字の伝えられたのも、また同じころでなくてはならぬ。」すなわち、「大和朝廷に文字が始めて入ったのは、如何に早くとも(遅くともではない)百済と交通しはじめたころ、でなければならぬ」という。
 しかし一方で「三世紀の倭人は、文字を知っていたかもしれないし知らなかったかもしれない。」と言っているのだから「文字が確実に大和朝廷にある、と断言できるのは百済との交通が始まった四世紀の後半である」と四世紀後半を文字伝来の下限とするのが当然である。ところがどういう訳か、「ヤマト朝廷で作られた最古の文献は如何に早くとも四世紀の末期にできたものであろう」と四世紀末を上限とする考えになってしまっている。

(3)ツクシ人が何故に文字を学ばなかったかといふと、それはその文字が日本語とは全く性質の違ふシナ語の表徴であって表音文字でなく、従って、それによって日本語を写すことのできないものであるのと、それが解しがたく学びがたいものであるとの、故であらう。(ヤマトの朝廷でそれを学ぶやうになったのは百済人の媒介があったからである。)(『日本古典の研究』、上)

 「漢字は表音文字でないからツクシ人は文字を学ぶことが出来なかった。大和朝廷が学べたのは、百済人の媒介による」と断定されている。当時、百済人は日本より早く、漢字を表音文字として用いていた。では、その百済の表音文字を「なかだち」としたという意味であれば、「万葉仮名」の祖型が百済にあったことになる。当然、新資料なり新証拠を提示しなければならない。では、百済人が通訳の立場で「なかだち」したという意味なのか。倭人伝に「使訳通ず三十国」とあるので、通訳をつとめた百済人が三世紀にツクシにいたことになる。
 中国文字を、中国人と直接に話し合えた人々が学べず、百済人を通訳に入れると学べるとはどういう事だろう。また漢字が「解しがたく学び難い」というのも随分雑な考え方で、難解な漢字もあれば、やさしい漢字もある。当時、洛陽や帯方まで使節となって行ったほどの人物が学ぼうとして学べなかったはずがない。四世紀に百済人の指導により、漢字を学ぶことが出来るのであれば、直接に中国人の指導を受ければ、三世紀にでも、あるいは一世紀にでも、学ぶことが出来たはずである。

(4)「応神朝に阿知吉師和邇吉師が来たという話をそのまま事実として認めることはできないが、我が国と百済との交渉の生じた時期から考へて、かう推測せられる」とは即ち、

イ、阿知吉師、和邇吉師が論語十巻と千字文一巻を持って来朝した、という記紀の記載は、我が国に始めて文字が伝わったという説話を、この応神朝に付会したものである。
ロ、それは事実と認められない。
ハ、しかし日本書紀では三世紀の後半とされている、我が国と百済との交渉が始まった時期は、朝鮮の歴史と突き合わせて調べれば、四世紀の後半の出来事と訂正しなければならない。
ニ、従って四世紀の後半に、百済人によって始めて大和朝廷に文字が伝えられた、としなければならぬ。

ということである。
 記紀には「和邇らが文字を始めて伝えた」という説話はない。だから、認めるも認めないもない。しかも、記紀の編纂者である大安万呂や舎人親王等の人々は、「応神朝に始めて文字が入った。だから、神武以来応神朝までの千年にわたる詳細な記録は文字による記録ではなく、すべて記憶によったものか、それとも空想物語である。」というような設定をしたことになる。

記紀における和邇の条を見てみると、
『古事記』では、
「百済の国主照古王、牡馬一匹、牝馬一匹を阿知吉師に付けて貢上りき。また百済国に『もし賢しき人あれば貢上れ』と科せたまひき。故、命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師。すなわち論語十巻、千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき」・
『日本書紀』では、
「(応神天皇)十五年秋八月壬戌丁卯に、百済王、阿直岐を遣して、良馬二匹を貢る。即ち軽の坂上に養はしむ、因りて阿直岐を以て飼はしむ。故、その馬養ひし処を号けて、厩坂と曰ふ。阿直岐、亦能く経典を読めり。即ち太子菟道郎子、師としたまふ。是に天皇、阿直岐に問ひて曰はく『如し汝に勝れる博士、亦有りや』とのたまふ。対へて曰さく、『王仁という者有り。是秀れたり』とまうす。時に上毛野君の祖、荒田別・巫別を百済に遣して、仍りて王仁を徴さしむ。其れ阿直岐は、阿直岐史の始祖也。
十六年の春二月に、王仁来たり。則ち太子菟道郎子、師としたまふ。諸の典籍を王仁に習ひたまふ。通り達らずといふこと莫し。所謂王仁は、是書首等の始祖也。」・
と記載されている。

この記事は、
「昭和二十何年に、天皇は『美しい発音の、しかも人柄のよい英会話の先生はいないか』とご下問になった。『ヴァイニング夫人という人があります。』『それでは、その人を招け』という事で、昭和二十何年に夫人は来日した。皇太子は夫人について英会話をまなばれたが、メキメキと上達され、英米人も感嘆されるほど美しい英会話を話される。その後、夫人は米国に帰られたが、皇太子の先生だったことを、大変光栄とされている。」
という記事とまったく同じ種類のものであろう。
この記事から「ヴァイニング夫人が日本へ始めて英語を伝えた」とか「それ以前の日本には英語を話せる人はなかった。」というような解釈は全然できないように、記紀の応神朝の記録から「和邇が始めて漢字を伝来した」というような解釈は出来るはずがない。
 和邇を招聘したいきさつは、百済の学者の学識の深さを評価し尊重する環境が、当時の大和朝廷にあった。すなわち大和朝廷の文化学問の水準も「無学だ」とか「目に一丁の文字なし。」という程度であり得ない事を、如実に表しているのである。

(5)(記紀の記載の上代の部分によって、われわれの民族の上代史はわからない。)以上の考えは、百済人によって書記の術が始めて伝へられたといふ考の上に立ってのことであるから、それに反対の見解があれば問題は別に生ずる。例へば、ツクシ地方には長い間のシナとの交通の結果、文字が既に輸入せられ用いられていて、それがヤマトにも早くから伝はっていたのではないか、といふような疑も起こらぬには限らぬ。BB中略BB(しかし魏志倭人伝に)文字が行われてゐたと思われるやうな証跡は見えない。文字があればシナ人は必ずそれに注目したに違ひないから、倭人伝にもそのことが記されさうなものであるに、毫もそんな記事は無い。のみならず魏略に「其俗、不知正歳四時、但記春耕秋収、為年紀、」といってあるのを見ると、暦の知識の無かったことが知られると共に、文字の用ゐられなかったことが想像される。シナの文字が用ゐらるれば、おのづからそれに伴ふ知識が伝へられねばならず、さすれば簡単な年月を記載するぐらゐの知識が無いことはなかったはずである。(『日本古典の研究』、上)

 一大卒が「津に臨みて搜露し、文書賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず」とあるのは、文字が用いられていた立派な証跡ではないのか。文字を知らなかったとすれば、どうして「差錯するを得ず」というぐあいに行けたのだろうか。また「魏略」の「但記春耕秋収、為年紀」も、春耕秋収に記したのは、文字があった明確な証拠であろう。津田は「其俗、不知正歳四時、但記春耕秋収、為年紀、」を正月や四季の知識を知らず、春の耕作や秋の収穫の時に年数を数える、とでも解釈したのであろう。魏略の本来の意味は「当時の中国で正しい暦法とされているものを、倭人は知らなかった。(すなわち倭人は異なる暦法を用いていた)ただし、春耕時と秋収時に半年間の出来事を記録し、年紀としていた」であったろう。
当時の倭人は『魏志倭人伝』によれば「租賦を収むるに、邸閣有り」という社会だ。簡単な文字も無く、三十国と称される諸国から、どのようにして租賦を集め、どのようにして管理したのか。倭国が租賦を徴収し始めた時に、何らかの記録術をも持っていなかったとすれば、必要欠くべからざる、それらの文字をどうしても導入しようとしたはずでる。前漢の時代より、楽浪郡までたびたび往来していた倭人は楽浪郡に文字があることをよく知っていたはずである。
 次に「文字があればシナ人は必ずそれに注目したに違いないから、倭人伝にもそのことが記されそうなものであるのに、毫もそんな記事がない」というのも、まったく独善的な考え方である。二万余戸の奴国、五万余戸の投馬国、七万余戸の邪馬台国を含む三十国を統属していた倭国である。一戸あたりの人口を仮に五人とすれば、その三国だけで、すでに七十万人以上となる。三十国を合計すれば、随分膨大な人口となったであろう。豪族も雇い人も、農夫も船乗りも軍人もいた。国々には市があり、その交易を大倭が監督していた。租賦も収めていた。内政、外交、検察の諸官も、いろいろとあった。身分も何段階かに分かれていた。当然、人々が死ねば、財産や身分の相続問題なども起こったであろう。「その法を侵すや、軽き者はその妻子を没し、重きものはその門戸及び宗族を滅す。」というように刑法もあった。しかも「盗竊せず、諍訟少なし」というぐあいに、裁判制度もあり平和に円滑に営まれていたのである。
 その巨大な人口を抱えた複雑な高度な社会が、いかなる文字もなく木に刻み目をつけたり、縄を結んだりしながら運営されている不思議な国であるとすれば、それこそ特筆大書していたはずだろう。考える方向が全く逆である。

(6)少なくともヤマトの朝廷に於いて、百済との交通以前に文字が行はれてゐなかったことは、百済人及び其のころから後に帰化した漢人が記録掛として用ゐられたのでも知られる。(『日本古典の研究』、上)

「百済人や漢人を記録掛に採用したことが、それまでの大和朝廷に文字が行われていなかった証明」のように言っている。大和朝廷に文字があれば、帰化して来た学者や能筆家を登用してはいけないとでもいうのであろうか。当時の帰化人は学者ばかりではない。軍人もおれば、百姓もいたろう。それらを軍人や農夫として用いておれば、それ以前に軍隊も農業もなかった、と考えるのであろうか。
津田の考え方を要約すれば「大和朝廷に読み書きの出来る人が一人でもおれば、帰化してきた学者文化人を登用するはずはない」ということになる。
「ぼう製鏡のなかには文字が逆になったり、削ったりしたものがある。それが文字が無かった証拠である」と主張する学者もいる。しかし、文盲率が99・999%であっても文字は無かったとはいえない。常に一人以上の読み書きのできる史(ふひと)がおれば帝紀旧辞は書き継げたのであり、日本に文字があった、という事になる。
 事実は、和邇らが来朝するより少なくとも数百年前に、文字は伝来しているのである。戦前から「科学的、実証的」な証拠が発見されている。
 中国における漢字の音韻が、時代により変遷していることは周知のことである。現存している最古の漢字は、殷王朝の卜辞、金文であるが、この殷代の文字は、どう発音されていたかよく判らない。殷に続く西周、春秋、戦国時代の音韻は、詩経や楚辞の押韻を手掛かりとして研究され、かなり判明している。この周代の発音を音韻学では「上古音」と呼んでいる。この上古音と、秦漢以後隋唐あたりまでの発音「中古音」とは相当な違いがある。それは中国の清朝以来の音韻学者のまさに科学的、実証的な研究により明白にされている。この上古音が、我が国に古くから遺されている文字のなかに存在している。このことは、大矢透博士により大正の初めに発見されている。しかしこの研究は、当時さんざん学界の攻撃を受けて葬り去られてしまった。攻撃した連中の拠り所は、例の「和邇らが始めて漢字を伝来した」という皇国史観から出たものである。いまでは推古朝遺文に、上古音が残存していることを否定する学者などおそらく一人もいない。しかし、現状では、「和邇が伝来した文字がこの上古音だろう」という説が通用している。四世紀の末に百済から伝来した文字に、先秦の上古音が用いられていたという。しかし、古代朝鮮諸国の中国文化受容の窓口は、楽浪帯方の二群である。楽浪郡が設置されたのは紀元前一〇八年頃、帯方郡が設置されたのは三世紀初頭である。秦の始皇帝が、周代の文字を整理し統一したのは紀元前二二〇年だから楽浪帯方の二郡が先秦の古字を使用するようなことはあり得ない。仮に百済の一部に先秦の古字古音を固守している人々がいたとしても、導入する我が国のほうで、楽浪帯方にも通用しなかった時代後れの古字古音を、四世紀の末になって学ぼうとするわけはないであろう。
 それでは記紀に記載されている和邇の条はどのような意義を持つのであろうか。先秦の古字を墨守していた大和朝廷は、その文字のみで日常の記録や、国家運営上の文書や、帝紀旧辞の記録には不自由を感じてはいなかった。しかし、三、四世紀になって入手した経典は、大和朝廷の人々には読みこなせない部分も多かったであろう。字形も字義も字音も彼等が墨守していたものとは相当違っていたし、文法も一変していたのである。たまたま、百済国王の使節として来朝した阿直岐が、スラスラとその経典を読み、明解な解釈を下した時に、大和朝廷は新字新学とのギャップの大きさを改めて知り、愕然としたのであろう。太子、菟道郎子が王仁を師として学ばれたのは、太子自ら新字新学を学ぼうとする範を示されたのであろう。

6.人は信じたいことを信じる
 史は、歴史を叙述する者の人生観や世界観などに無意識のうちに規定され、歴史を語る者のアイデンティティを保障するものとして、「現在」において形成される。マックス・ヴェーバーは次のように述べている。

−−−−どんな「歴史叙述」でも現代の価値関心の立場から書かれ、しかも現代的な関心というものはその時々の価値理念によって変動する。それ故、現代はいつでも歴史史料に対して新たな問題提起を行いうる。反面、現代的な関心が現代文化の構成部分の原因を求めて因果的な遡及を行った際に、原因とはされ得ない過去の文化構成部分をも「価値評価し」それらを歴史的な「個体」とすることも確かである。−−−

引用文献
小熊英二『単一民族神話の起源』新曜社1995年
池田宏『古代史学に対する疑問』(新樹社、昭52)
マックス・ヴェーバー『歴史学の方法』講談社学術文庫
ブルース・バートン『国境の誕生―大宰府から見た日本の原形』NHK BOOKS



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