日本先住民と柳田国男
日本民俗学の父といわれる柳田国男の初期の主要な関心は、サンカ(山窩)をはじめ山人,漂泊者,被差別民などに向けられている。そのなかで、「山人は日本列島先住民の子孫である」といい、被差別民の民俗が日本列島の文化の古層に属する重要な残留物を表示していると指摘している。
この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ。
『遠野物語』(ちくま文庫版 『柳田国男全集〈4〉』)
註:「陳勝呉広」・・・最初の試み
拙者の信ずるところでは、山人はこの島国に昔繁栄していた先住民の子孫である。その文明は大いに退歩した。古今三千年の間彼等のために記された一冊の歴史もない。それを彼等の種族がほとんと絶滅したかと思う今日において、彼等の不倶戴天の敵の片割れたる拙者の手によって企てるのである。これだけでも彼等はまことに憫むべき人民である。しかしかく言う拙者とても十余代前の先祖は不定である。彼等と全然血縁がないとは断言することができぬ。むやみに山の中が好きであったり、同じ日本人の中にも見ただけで慄えるほど嫌な人があったりするのを考えると、ただ神のみぞ知しめす、どの筋からか山人の血を遺伝しているのかも知れぬ。がそんなことは念頭に置かない。ここには名誉ある永遠の征服者の後裔たる威厳を保ちつつ、かのタシタスが日耳曼(ジェルマン)人を描いたと同様なる用意をもって、彼等の過去に臨まんと欲するのである。幸いにして他日一巻の書をなし得たならば、おそらくはよい供養となることであろうと思う。
「山人外伝資料」(ちくま文庫『柳田国男全集〈4〉』)
山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してもよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋について若干の異なる意見を抱くのであります。私の想像するのは六筋、その一は帰順朝貢にともなう編貫(へんかん:里人の一員に組み入れられること。)であります。最も堂々たる同化であります。その二は討死、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新米の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い年月の間に、人知れず土着しかつ混淆したもの、数においてはこれが一番多いかと思います。
「山人考」(岩波文庫『遠野物語・山の人生』所収)
このように日本民俗学は山人研究から始まったのであるが、大正15年11月に刊行された『山の人生』では、当初の「山人は日本列島先住民の子孫である」という主張も大きく後退し、この作品を最後に柳田は山人の研究から手を引いた。
谷川健一氏は、次のように述べている。
「『遠野物語』にはじまる山人への関心が『山の人生』へと移行する過程で、柳田は山人=先住民の主張を目立たぬようになしくずしにしてしまった。そののちは常民=日本人の文化をことさら強調することで、柳田は日本列島の歴史民俗社会を異質の複合文化として捉える視点を捨てた、と見ることができる。それは柳田のみならず、日本民俗学にとって大きな転回点であった。柳田が山人研究で所期の成果をあげることができたならば、日本民俗学はその貴重な富の蓄積の上に立って、いちじるしく違った展開を見せていただろう。民俗学が歴史学その他の学問に与える衝撃度も今日より遥(はる)かに大きいものがあったにちがいない。」
集英社文庫版 『白鳥伝説 (上)』
古代史研究家の佐治芳彦氏は、柳田のこの「転向」の原因を次のようにいう。
「まず高級官僚(貴族院書記官長=現在なら参議院事務総長に相当)出身の彼は、大正末期から昭和初期にかけての日本の政治思潮を十分に先き取りできる立場にあった。そこで、必ず古代天皇制の問題にぶちあたる「山人=先住民」説を、これ以上追ってゆくことにある種の危険を予感した。つまり、山人=先住民なら、平地人=天孫民族は山の民のものである日本列島の征服者であり、その支配の正当性が大きくゆらいでくる。いいかえれば、天皇の日本列島支配の正統性への疑惑につながりかねない。内務省・文部省・宮内省などに多くの知己をもつ柳田にとっては、この問題に固執し続けることが、きわめてヤバい事態にいたることは十二分に予測できたわけである。」
新國民社刊 『こけし作り 木地師の謎―日本のこころ』
註:『遠野物語』を書いていた当時の柳田の肩書きは「内閣法制局参事官、兼宮内書記官」
古田武彦氏によると柳田民俗学を評して「前近代の民俗学」であるとする。
「柳田は自家の民俗学の中に、“天皇家出自の秘密”にかかわる神話・説話類を入れしめなかった。明治人柳田にとって、「天皇家の発生自体を相対化する」、それは到底耐えうる視点ではなかったのであろう。その限りにおいて、柳田民俗学は「近代以前」の民俗学であった。わたしにはそのように評するほかはないように思われるのである。」
駸々堂刊 『古代史を疑う』
真偽のほどは確かめようもないが、矢切止夫によれば柳田は「折口信夫との同性愛関係を曝露するぞ」と脅されて先住民研究を止めたという。
若き日の矢切止夫 |
こうして、柳田以後の日本民俗学の主流は長い間、「常民」概念に束縛され被差別者など非常民に関する問題は、一部の研究者を除いて正面から挑む対象とはならなかったのである。