Libenter homines id quod volunt credunt.人間は、望むことを喜んで信じる。
歴史における「真実」とは
ヴォルテール(仏)は「歴史の真実を知ることは、自由が存在する国においてのみ、はじめて可能となる」といった。自由の存在しない国においては歴史の真実を知ることは出来ないということである。戦前まで、日本人は神話と事実が混在した「皇国史観」に基づく古代史を教えられてきた。では、戦後、古代史の真相が国民に明らかにされたのかというと結構疑問がある。自由が存在しているならば当然に歴史の真実を知ることが出来る、というわけではないことに留意しなければならない。
古代史・民俗学の谷川健一によれば、戦後の日本古代学は、極めて危険な「伝統」のもとに惰眠をむさぼり続けているという。谷川は、文献史学・考古学・文化人類学・民俗学などが「単独では日本人の古代生活を明らかにしていくことは不可能である」にもかかわらず、日本の古代学の伝統が、依然として学際的な学問になっていないと指摘する。中でも文献史学の場合、その拠って立つ文献が極めて相対的なものであるにもかかわらず、そのことについての意識が希薄であることの危険さについて以下のように述べている。
「記紀万葉などが皇国史観の史料的な裏付けとされたこともあって、それらさえあれば日本の古代は十分に説明可能であるという考えが培われており、これは皇国史観を批判する戦後の史観にもそのまま受け継がれてきた。だが、考えてもみよ。『日本書紀』に明記されているように蘇我氏が滅びたときに、『天皇記』や『国記』などの記録を焼いたとある(皇極天皇4年6月)。これらの書物がもし現在も伝わっているとしたならば、日本の古代史が一変していることは疑問の余地がない。今日私たちが読むのとははなはだ異なった古代の通史が書かれていることになったはずである。にもかかわらず、現存の記録を相手として研究する史家はいつしかそれだけが与えられた記録であるという考えを持ち始め、それだけで必要かつ充分であるという錯覚に陥る。そこで与えられた記録の中だけで推理し、また理屈をつけるようになる。これは極めて危険なことではあるまいか。」(『古代史と民俗学』ジャパン・パブリッシャーズ)
谷川健一 |
歴史はそれを叙述する者の「価値観」「関心」「所属する文化」さらには「政治的立場」等によって規定されるもののようである。マックス・ヴェバーは、「どんな“歴史叙述”でも現代の価値関心の立場から書かれ、しかも現代的な関心というものはその時々の価値理念によって変動する。それ故、現代はいつでも歴史史料に対して新たな問題提起を行いうる。反面、現代的な関心が現代文化の構成部分の原因を求めて因果的な遡及を行った際に、原因とはされ得ない過去の文化構成部分をも“価値評価し”それらを歴史的な“個体”とすることも確かである。」といっている。
古代史学の大家である直木孝次郎は次のように言う。
「邪馬台国位置論の歴史を見てきたが、それは学問上の問題でありながら、政治情勢と深い関係にあることは否定できないようである。では戦後、特に近年の位置論の隆盛は、どのような政治情勢と関係があるのだろうか。
(略)
私は九州説が、古代の歴史の発展をすべて畿内中心に説明しようとする伝統的考え方に対する反措定(アンチテーゼ)であるところに、ブームの基礎があるのではないかと思う。
(略)
戦後の畿内説では、邪馬台国と大和朝廷とを切りはなす意見(私もその説)も有力になっているが、畿内の先進性の強調は、古代天皇制の合理化にもつながりかねない。そこに私は、畿内説を否定する九州説が熱気を帯びて盛んになった理由を求めたいのである。
換言すれば、反政治・反政府・反東京・反独占資本の気風が、現代の九州説の背景をなしているのである。現代政治への批判が、古代の政治の中心が終始畿内にあったとする歴史観の批判という屈折した形を取って現れているのが、九州説である。(『日本古代国家の成立』講談社学術文庫)
早い話、「歴史学」も結局は政治的なものだということである。直木孝次郎は、「九州説」」を反体制的な政治信条に基づく邪説だと言っているようだが、立場を変えてみれば直木氏が説く「畿内説」こそ体制擁護のイデオロギーに立脚した邪説になってしまうのではないか。
他にも様々な論者が、歴史はそれを叙述する者の「立場」によって規定されるものである、ことを指摘している。
「歴史は、それを見る者の目によって様々な光を放つ。どれだけ正確に、公平にと心がけても、本人の能力や人間観、世界観などに無意識のうちに規定されてしまう面があるだろう。このことは、先哲の著した幾多の史書をひもとけば了解できることである。それでもすぐれた史書は、時代の風雪を経てなお、読者の胸をうつものがある。それは歴史に科学としてだけでなく、作品としての側面があるからであろう。歴史学の対象が人間である以上、書く者の人間性や想像力がそこに反映されるのは当然だ。問われるのはそれらの質如何であろう。」(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』文春新書)
「歴史は書き手の文化によって大きく左右されるものだ。朝廷の書き手はこの地(青森県)については無知であり、無関心であった。それでは青森県は日本史にとって意味のない地なのだろうか。もしそうだとすれば、ここに生きつづけてきた伝統はいったい何なのか。もしこの地で歴史が書かれていたとすれば叙述はまったく違ったものになっていたはずである。」(小山修三『縄文学への道』 NHKBOOKS)
ところで、お世話になった恩師の学説に反することをいうのは結構勇気がいることで、特に日本の史学会や考古学会は閉鎖的かつ権威的で、若手がその道の権威や同じ大学の先輩の説を批判するのは非常な勇気が伴うといわれている。なんと、時には人間関係の破綻にさえ直結するという。例の「旧石器発掘捏造」にしても事件発覚の相当以前から疑問・批判が出されていたが、そのような意見を言う科学的で良心的な学者は学会全体から「村八分」にされてしまっていたという。自然科学であれば、実験や観察を通して、師の説を客観的に覆すことが可能であるが、社会科学や人文科学ではそうそう明確に覆せるものではない。そして、大学の師弟関係は戦前・戦後でとぎれているわけではないから、現代の歴史学者、考古学者が戦前の史観の影響を大きく受けていることはむしろ当然である。さらに文献史学などは、そうそう新たな資料も発見されない。そこで解釈をこねくり回し牽強付会を繰り返せば、結果的にどんな解釈でも可能になるから、師説を墨守することはいとも簡単である。
東京帝国大学の黒板勝美教授は「朝鮮総督府朝鮮史編修會」の顧問であり、朝鮮史改竄の首魁と見なされている人物である。その黒板勝美の直系の弟子にあたるのが日本歴史学会の最高権威の一人東京大学の坂本太郎である。坂本太郎の言葉に「古代のある事件について幾つかの史料がそれぞれ異なったことを延べている時は『日本書紀』の記述を基準にする。」というのがあるが、現在、我々が読んでいる「日本書紀」は黒板勝美が編集したものなのである。
アカデミズムにおける皇国史観の泰斗 黒板勝美 東京帝大教授 |
しかも日本史学会や、考古学会は学際的な研究をほとんど行ってこなかったし、学際的な研究がどうも嫌いなように見受けられる。日本史学会などは国内においてすべてが完結してしまう学会である。これこそ万邦無比と言うしかない特殊性である。ヨーロッパや中国史の研究は国際的に為されており国際的学会が存在し活動している。しかも、いくら自国の歴史を歪曲しようとしたところでその国の歴史を見つめ記述してきた他の国からすぐに指摘を受けてしまう。日本史は客観的歴史記述が事実上中国文献しか存在しないということもあってか、外国の研究者がほとんど存在しない。そのため日本史を研究し論じるのはほとんど日本人だけのため、どうしても日本国家と国民にとって心地の良い日本史を作りがちである。教科書の記載もはっきりした表現を巧妙に避けながらも「日本人は大昔から日本国に住んでいたのだ」という考え方を植え付けるように書かれている。このような戦後の日本史業界を支配している、「単一国家・単一民族」思想とそれに基づく「大和朝廷国内自然発生説」は、充分に疑ってかかる必要がある。