奴隷制度の歴史−4

W.中国の奴隷制度
殷の時代から奴隷狩りが行われていた中国では、少数民族イ族の奴隷制度が1949年の中華人民共和国成立後もつづき、1956年にようやく廃止された。

【商(殷)】
 商(殷)は祭政一致の典型的な神権政治を行い、王はさまざまな決定をする際にかならず占いをし、天の意思を確認して命令をくだした。祖先の霊や自然界の神々も重要視され、彼らに対して動物や奴隷などを生け贄としてささげ、祭りをとりおこなうことも王の重要な役割であった商(殷)王朝生け贄や奴隷を獲得するため平和に暮らしていた周辺諸族を対象に「狩り」をおこなった当時の社会は、特権階級の王族・貴族が、奴隷やさまざまな職人集団を支配していた。大型の墓には多くの奴隷が殉葬されており、甲骨文にも奴隷の記事がみられる。

【秦・漢】
 秦・漢代における奴婢は、牛馬や土地、品物と同様に主人の財産であって、任意に使役され、売買された。奴婢には官奴婢と私奴婢があって、その数は非常に多かった。漢の高祖は重農政策をとり、債務奴隷を解放して平民とし、農業従事者を増加させた。
 官奴婢とされたものは、重罪犯の家族戦争捕虜などである。官奴婢は宮廷や役所で使役されたほか、官営牧場などで犬、馬、鳥などの飼育や官営工場で手工業に従事させられたり、築城などに用いられた。官営の牧場で馬の飼育に従事した奴婢は3万人におよぶ。
 私奴婢の主たる来源は、破産した農民である。また債務奴隷や、誘拐されて売られたもの、もと官奴婢で恩賞として与えられたものなどである。
 戦国時代頃から始まった大土地所有制は漢代に盛んとなり、各地に広大な土地を所有し、多くの奴婢や小作人を使って耕作させる豪族があらわれた。漢代の農民の多くは彼らの支配下に入り、半奴隷的な状態となった。有力な官僚や大地主、大商人などは数百から数千人の奴婢を所有していた。
 奴婢は牛馬と一緒に市場で売買された。漢代には奴隷を恣に殺すことは許されていなかったし、奴隷を殺したときには届け出なければならなかった。しかし、実際のところ主人は奴婢に対して生殺与奪の権を有し、奴婢に生命の保証はなかった。
 董仲舒は所謂「去奴婢除専殺之権」を建議した。前漢の末、哀帝の時(前7)に、大土地所有の制限と奴婢を制限し、小農の保護を目的とした限田策がつくられたが、反対が強く、実施されなかった。後漢の光武帝は「天地の性、人を貴となす。其れ奴婢を殺す、罪を減ずるを得ず。(天地の間に人間より尊いのもはない。殺した相手が奴婢であるからといって罪が減ぜられる訳ではない。)」と詔した。

「人権主義者」光武帝 光武帝

【隋・唐・五代】
 北魏の法には奴婢と、隷戸の二種の賤民があった。隋唐の社会においては、士族を除けば、大まかに二種類の階層に分かれる。一つは良民で、農工商よりなる。二つ目は賤民である。隋代には、賤民は楽戸と奴婢とに分かれていた。
 唐代には、雑戸、番戸と奴婢に分かれた。雑戸は各役所の下で使役され、戸籍を有した、百姓と同じく口分田を受けた。番戸は各役所の下で使役されたが、戸籍を持たなかった。奴婢は最低の地位におかれ、主人の財産の一部とされた。
 唐律には奴婢と、部曲の二種の賤民が規定されている。部曲と奴婢は主人とその親族を訴えることが出来なかった。唐代の規定には所謂「課戸」と「免課戸」があった。「免課戸」の身分は複雑で、皇族や高位の官僚および老人、廃疾、僧尼、部曲、奴婢等もすべて免課戸である。この制度を実施するには正確な戸籍と能率的行政組織が必要であった。なお、唐代には三種の婚姻制限があった、同姓同志の結婚、地方官と地元の女との結婚、番戸、奴婢と良民との結婚の三種である。
 唐代には奴婢を蓄える風潮が盛んであったが、五代にいたって社会が乱れ、奴婢が主人を脅かすようになり、奴婢を蓄える風潮は弱まっていった。

會昌の法難
 唐の武宗は會昌初年(841年)から仏教弾圧をはじめた。その結果、大きな寺院四千六百、小寺院等の仏教建築四万を打ち壊し、二十六万余人の僧尼を還俗せしめた。さらに、寺院の土地と、寺が所有していた奴婢十五万人を差し押さえた。つまり寺院は大奴隷主であったのである。

部曲
 漢代においては、軍隊編制の名であった。すでに三国時代において豪族の私兵を指していた。魏晉南北朝において社会の混乱のため多くの民が家兵・私兵・傭兵となった。隋・唐代においては奴婢と良人のあいだに属する賤民的な社会階層を指す。奴婢は家庭内奴隷であり、部曲は身分的には農奴に近く、法律上は奴婢の上の地位であった。民籍に入らない。主人に所属し、生産労働にしたがった。「唐律疏議」の規定には、「奴婢部曲、身繋於主」とある。

【明・清】
 明代には、元代と同じく職業による身分を世襲していた。晉陝の樂戸、江南の丐戸、広東の蜑戸などの賤民がいた。良民との通婚は禁じられ、科挙を受けることも出来なかった。清の世宗(雍正帝)の時これらの賤民は解放されて良民となった。賤民の下に奴婢が位置づけられていた。江南地方の富豪には、元代から引き続いて奴婢を蓄える風潮が強かったが、次第に廃れ清代にはすっかり衰えてしまった。
 樂戸、丐戸、蜑戸などの賤民は、社会からの排除を受けたが所有されることもなく売買されることもなかった。故に奴隷ではなく自由民の一種である。これに対して奴婢は所有・売買される奴隷である。

 苦力とは、インドや旧中国の労働者、とくに荷担ぎ夫、鉱夫、車夫などをさす。タミル語で雇うということばを英語でcooly, coolieと表記し、それを中国で苦力と表記したといわれる。人間労働力として売買される点では奴隷と同じであった。アメリカではリンカーンにより1862年に奴隷が解放されたが、苦力は奴隷にかわる労働力として、清朝の禁令にもかかわらず、外国の商人や中国買弁の手で香港、マカオを中心に、西インド諸島、南アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアなどに大量に送られた。苦力の売買は国際的には1874年マカオの苦力取引禁止令によって終わったが、中国では形を変えた苦力制度が長く温存され、日本も中国侵略中、鉱山、土建業、港湾においてこの制度を利用した。1949年10月の中華人民共和国成立以降、こうした制度は完全に廃止された。

鉄道建設に従事する苦力 苦力

マリア・ルーズ号事件
 明治5年6月4日、中国の苦力230人を乗せたペルー船マリア・ルーズ(Maria Luz)号は、マカオを出航しペルーに向かって航行中、嵐にあい修理のために横浜港に寄港した。7月13日夜半、清国人木慶と言う人が夜の海に飛び込んで逃亡、近くに停泊中のイギリス軍艦アイアン・デューク号に救われたが、その憔悴しきった様子を不審に思った船員が問いただしたところ、船内での苛酷な虐待が発覚した。この事実がイギリス領事から外務卿(外務大臣)副島種臣に伝えられた。
 副島種臣は、清国人全員を上陸させて港内の施設で手厚く保護したうえで、「外国の船のことだ。日本には関係ない。」とか「触らぬ神にたたりなしだ、見て見ぬふりが一番いい」という意見を退け、法権は日本にあるとして、神奈川県参事(のち県令)大江卓に船長ヘレイロの裁判を命じた。大江は、司法大臣らの意見に反対し、中国人全員を解放・帰国させた。横浜に住む清国人達は、大江の公正な判断を称賛して、数万の爆竹を鳴らして祝い、大江に深紅の刺繍旗に感謝の言葉を刺繍した旗を送った。「クーリーは奴隷であり、人道に反している」とする日本の審決にペルー政府が対抗し紛糾したが、明治八年のロシア皇帝の仲裁裁判は、「日本政府の徳義的処置はなんら非難すべきところがない」と判決をくだした。苦力を解放したこの事件は、国際的に大きな波紋を投げかけ、国内の人身売買禁令の契機にもなった。

神奈川県令 大江卓 大江卓

【イ族】
 中国西南部に住む少数民族イ(彝)族は中国の55の少数民族の一つで、人口約650万人と人口も多く、現在、四川、雲南、貴州に広く分布するチベット系の民族である。独自の文字を有している。イ族の起源については、移住や土着など諸説あるが、北方或いは西北方から中国西南部に南下してきたとする見方が多数派である。漢代から唐代にかけて、イ族社会は奴隷制社会になり、次第に強大になっていく。奴隷となったのは唐と南詔との45年に及ぶ戦いで2度も敗れ20万人近い将兵を失った唐軍の敗残兵達の子孫や略奪された人達であったろうと思われる。しかしその後、元、明、清の各王朝に抵抗は示すも、次第に大半のイ族奴隷主は消滅させられるか、あるいは清朝に服従して地主になり、封建社会へ移行した。しかし土地の険しい四川省西南部の大凉山を中心とし東は雷波、西は西昌、北は大渡河から南は金沙江にいたる、35,000平方キロにわたる高山・高原地帯大凉山地区のイ族社会はイ族固有の風俗・習慣・文化が、その長年の閉鎖社会により最も保たれている地域であり、古代奴隷制度が1949年の中華人民共和国成立後もしばらくつづいた。1952年、四川省凉山イ族自治州が成立したが、自治州成立後も奴隷制度は数年間存続し、1956年、四川省凉山イ族自治州第3回代表会議で、奴隷解放が決定され、古代からの長きにわたった奴隷制度が、ようやく消滅する事となった。
 凉山イ族社会は、奴隷主階級と奴隷階級の2つにはっきり分かれている階級社会で、奴隷主階級は黒イと呼ばれ、イ族社会の7%で、自由民・支配者・統治者である。一方、奴隷階級は白イと呼ばれ、イ族社会の93%を構成していた。奴隷階級は、一部は、黒イに捕まった漢人で、大部分は古代に黒イに征服されたイ族の奴隷階級である。奴隷階級は、曲諾(チュノー)・瓦加(ワチャ)・呷西(ガシ)の3つの階層に分かれている。貴族奴隷主統治階級である黒イは、世襲の族長である茲莫(ツモ)と奴隷主の諾(ノー)で構成され、自分たちを諾蘇(ノースー:黒い皮膚の人)と呼んでいる。黒イは、労働をいやしみ、一日じゅう、騎馬や武芸にあけくれ、奴隷階級の無償労働と現物貢納で暮らしていた。黒イは、彼らの自称:ノースーからきている漢族による呼称で、白イは、黒イにかつて征服されていたイ族をいう。
 曲諾(チュノー)は、総人口の半分ぐらいで、その身分は奴隷主に隷属していて、奴隷主の直轄区域内でしか移動できず、奴隷主に贈り物を贈ったり、軽度の労役に服さなければならないが、ある程度の身分上の自由があり、奴隷主によって殺されたり、売られたりする事はなく、その子女も自分で所有する事ができる。奴隷階級ではあるが、彼らのうちの力のあるものは、漢人奴隷やその子孫を自分の奴隷として所有している
 瓦加(ワチャ)は、漢語で「安家(ワチャ)娃子」と呼ぶ奴隷で総人口の4割程度を占めている。奴隷主の家の近くに、奴隷主によって「呷西」の妻をあてがわれ小さい家庭を持つ。奴隷主の土地を使って農畜業をいとなむ一方、一年の大半を主人のため無償労働する。身分上の自由がなく、殺されたり売られたりするし、またその子女も自分の所有とならず、奴隷主の「呷西」となる。
 最下層のクラスは、呷西(ガシ)で、漢語で「鍋荘娃子」(イロリのそばで働く奴隷と言う意味)と呼ぶ奴隷。総人口の1割程度がこれに属し、奴隷主の家に住み込んで24時間拘束され、どのような自由も権利ももたない。殆どが、一生を独身で終わる男女で、彼らは主として、漢民族居住地区から掠奪されてきた人やその子孫で、主人に金で買われた者もいる。少数は忠実に働くと、主人から妻をあてがわれ少しの土地と家をもらい、瓦加に昇格することもある。こうした3階層の奴隷は、自由・権利を持たず、貧苦の生活を強いられ、もし逃亡したり反抗すれば、目をくりぬいたり、鼻をそいだり、生き埋めにするなど、非常に残酷な刑罰を受けた

イ族の少女 彝族の娘



このボタンを押すとアドレスだけが記された白紙メールが私のところに届きます。


前のページ 次のページ

目次に戻る

表紙に戻る