Homines id quod volunt credunt.人間は(信じたいと)望むことを信じる。

歴史は所詮「信じたい」か「信じたくないか」

 
学校の歴史でも日本の古代に朝廷(大和政権)に従わなかった、異族として東北地方の蝦夷、南九州の熊襲・隼人くらいは誰でも教わるものと思っていた。ところが筆者の知り合いで熊本県出身のそれなりのインテリが熊襲を全く知らなかった。日本武尊は知っていたのにである。

 
では「薩摩隼人」といえば鹿児島県人に対する褒め言葉として使用されているが、古代における「隼人」の実態を知っている者なら決して褒め言葉として使ったりはしないと思う。まつろわぬ異族として征伐の対象とされ、捕虜として連行された者は、奴隷兵として宮門の守護をさせられ「吠声」を発することを強要された。江戸時代に「薩摩隼人」などと島津藩士に向かって言ったら切り捨て御免になったかも知れない。「隼人」という言葉が何となく俊敏でかっこよさそうな響きがあるので今では褒め言葉になったものと思われる。

 
に目を転じると、岩手県に平泉と言うところがある。平泉と言えば誰もが知る中尊寺金色堂などを建立した有名な奥州藤原三代の栄華の都である。さて、平泉町に達谷の窟と言うところがある。ここは奥州の清水寺であると言われ、坂上田村麻呂に滅ぼされた蝦夷の首領「アテルイ=悪路王」の根城であった場所に田村麻呂が創建した「懸け造り」の寺である。山門を入るとすぐの所に大きな立て看板があり、そこには次ぎのように記されている。

 《東北古代史の英雄・坂上田村麻呂公を顕彰する》
この頃、征夷大将軍坂上田村麻呂公を中央からの侵略者、悪路王こそそれに抗した郷土の英雄とする考えがあるが、これはおかしい。達谷に伝わる〈籠姫〉や〈姫待瀧〉〈鬘石〉等の伝説では、悪路王に苦しめられる民草を救うのが大将軍なのである。昔から苦しめられる側であった民草は救う人に心を寄せ、大将軍を毘沙門天王の化身として信仰して来たのだ。大将軍創建の社寺、大将軍の伝説はこの東北に星の数程ある。当に大将軍こそ東北古代史の英雄であろう。達谷窟毘沙門堂は大将軍と悪路王伝説の発祥地であり、日夜心を込め〈南無田村大将軍〉と唱えている。云々。


 
するに田村麻呂に征伐された蝦夷とは、その当時の東北住民をいうのではなく、一般住民を困らせる山賊みたいな存在であったという解釈である。もちろん全くの誤りで、鎌倉幕府の成立の時に頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏は自ら「俘囚の長」と称しているくらいである。

 
泉には頼朝によって破壊されるまでは中尊寺を凌ぐ大寺院であったという毛越寺(もうつうじ)と言う寺がある。今でも立派な浄土庭園が残っており観光名所の一つである。毛越寺の伝によると、嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなった。ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちていた。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっていた。大師が近づくと、白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現れ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げた。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺(かしょうじ)と号した。これが毛越寺の起こりとされる。観光バスのガイドさんの説明では慈覚大師が鹿の「毛」を「越」えて進んだから毛越寺と言うことらしい。全くの牽強付会説である。蝦夷は毛人とも書く。また、「越」は越後、越中の越であってやはり蝦夷の居住地であった。要するに毛越寺とは蝦夷の寺という意である。

 沢元彦の「逆説の日本史」によれば、桓武天皇は、「平安京」を造営し、徴兵制による常備軍を廃止して、死刑も事実上なくした。人間を殺すことによる怨霊化を恐れたためだという。一方で「蝦夷征伐」には熱心に取り組んだ。つまり、桓武天皇は、古代世界の常識によって、蝦夷たちは「人間以外」であると考え、無惨に殺せばタタリをなすのは「日本人」であって「異民族」ではないから、蝦夷を「征伐」できたというのである。これでは、蝦夷とは東北住民をさした言葉ではなく一般住民に危害を加える山賊であると言いたくなってしまう気持ちも分かるし、牽強付会の毛越寺の名称由来説話も分かる気がする。

 
上いくつかの例を挙げたが、結局の所「歴史」とは「信じたい」か「信じたくないか」によって決定され伝承されていくものかもしれない。



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