Homo homini lupus.人間が、人間にとっての狼である。
やっぱりあった!日本での奴隷貿易 |
以前から疑問に思っていたのであるが、ポルトガル人といえばアフリカの黒人を奴隷として新大陸に売って大もうけをしていた奴隷商人(slave merchant)であるはずなのに、何故か日本史の教科書には「ポルトガル人が堺や博多に来航して南蛮貿易が盛んになりました」とだけ書いてある。徳冨蘇峰が日本人奴隷の輸出が行われた事について書いていると、以前、何かの本で読んだことがあったのだが今回やっと日本人が奴隷として海外に売られていたという事実を確かめることが出来た。
天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
豊臣秀吉 |
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。
しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。
池本幸三/布留川正博/下山晃共著 『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』人文書院、1995年
「読者の方からのお便り」の紹介
鉄砲伝来(1543)から日欧交渉史が始まったわけであるが、学校の歴史の時間には奴隷貿易があったことなど全く教えられていない。教科書を作る側の無知によるものなのか、意図的に避けているのか、はっきりしない。
しかし、私は日本人奴隷の存在について聞かされたのは今回が初めてではない。大学時代、ポルトガル人教師から聞いたことがあったので「なるほど」と思った。で、日本人奴隷を南蛮人どもに売って大儲けしていたのも、これまた日本人だったてわけ。昔の日本には元々、人買いと言う職業が存在していたことはよく知られている。人身売買は珍しくなかった。アフリカ人奴隷についても同様のことが言えよう。白人が、平和なアフリカに攻め込んで人間狩りをやって奴隷にしたてたと普通は思われている。そういうこともあったかも知れないが、殆どの場合、日本のように人身売買を職業とするアフリカ人が同胞のアフリカ人を売っていたと言われる。正に歴史のウラ話しではある。