第十六 支那および朝鮮との交通
室町時代内治の弛張は、また當代の外交に關係するところ少なからず。先の弘安の役は一時彼我の交通を中絶せしめたるが、てき估の通商はなほ常に行はれ、殊に邦人の海事思想は外寇の刺激によりてかへつて啓發せられ、吉野朝廷の時代に及び、國内の騒亂するにつれて志を得ざるものは、海外にその驥足を伸ばさんとせり。中にも九州・瀬戸内海などの沿岸の住民は夙に航海に巧みなるより、しきりに支那・朝鮮地方に渡りて貿易の利を収めんとす。足利尊氏も京都に天龍寺を建つるに當り、その費用を補はんがために商船を元に遣わししが、爾来例となりて、毎年商船を送りて彼と貿易を營み、これを天龍寺船と稱しぬ。
これら勇敢なる西國邊民の海外に渡航するものは、彼の政府が俄に海禁令を布きて貿易を許さざるや、大いに怒りて忽ち奮起し、まま焚掠をも行ひ、その勇猛當たるべからざるものあり、彼の國人頗るこれを恐れたり。既にして朱元璋元を滅して明の太祖となり、やがて使を太宰府に送り来りて海寇を禁ぜんことを請ふ。時の西征將軍懷良親王、その書辞の無禮なるを責めてこれを却けたまひ、その後もしばしば彼の威嚇に屈せず、名分を固持して毫も國威を辱しめたまはざりき。然るに足利義満は、應永八年、商人肥富を僧祖阿と共に明に遣はして通交を求めしより、彼我の國交再び開かれたりしが、明主はみづから持すること尊大にして、我に對すること甚だ不遜なるにかかはらず、義満は貿易の實利を得るに汲々として大義を顧みず、みづから日本國王の號を僭稱し、臣禮を執りて明廷に朝聘し、彼の年號を用ひて平然たるなど、いたく我が國威を毀損せり。よりて義持は神託に託して斷然朝貢を拒絶せしに、義教に及びて修好復活し、さらに義政に至りて交通再び繁く、國交の體裁また義満の舊に復して名分を紊すところ頗る多かりき。
當時明との國交は、實は貿易の利を収むるを主とし、遣明船は三艘乃至十艘に達し、彼より勘合符を受け、これをもたらして官船の證とし、彼此對照して以て私船と區別せり。我は鑛物・刀剣・調度品などを搭載して寧波に渡り、彼の商貨と交換して巨利を博し、彼よりは主として銅銭・生糸・絹織物・薬品・書畫・骨董の類を輸入し、兵庫・堺・博多・坊津・平戸の諸港は、相ついで貿易港としてしだいに繁榮しぬ。されば幕府は屈辱を忍びてさへ、通交に力めてその財政の缺乏を補はんとし、諸國の大名・社寺・商人らまた勘合符を幕府に請受けて通商に勵みたり。殊に義政のころは府庫いよいよ窮乏を告げたれば、これを救はんがため、しきりに銭貨を彼に求めしが、我は既に王朝以来貨幣の鑄造絶えて通貨缺乏の際とて、彼の永樂銭はわが通貨として市場に流通し、専ら永高と稱して、物價もこれを標準として定まるの情態なりき。
諸大名の明と通商せし中にも、周防の大内氏は彼我交通の要路に當たるを以て早くより幕府の依託を受けて勘合符の事を管掌せしに、後、幕府の衰ふるに及びて、専ら明國通商の實權を握り、その國大いに富み、山口は外國貿易の商業地として一時頗る繁昌せり。されどこの後戦國の世となりて、大内氏亡びて日明の通行はおのずから衰へたり。
また朝鮮との修好は、對馬の島主宗氏早くよりこれにあづかれり。蓋し義満の頃より商船の高麗に往来するものやうやく繁くなりしが、その後、高麗はわが邊民の侵掠に苦しみしを、その將李成桂これを鎭壓して聲望を高め、高麗朝の疲弊に乗じて、元中九年遂にこれに代り、はじめて李氏の朝鮮を開きたり。これよりしばしば使を来朝せしめて修好を求め、我の需に應じてたびたび佛經・典籍などを送り来りしが、後、嘉吉三年癸亥條約を宗氏と結びて、宗氏の歳遣船を五十艘と定め、釜山浦、鹽浦・薺浦の三港を開き、勘合符を以て通商を營むこととせり。もと對馬は土地狭小にして地利に乏しきにより、朝鮮との貿易の利を収めて財政の不足を補給したることとて、これより三港に對馬の使館を置き、専らその通商權を握りたれば、諸國の大名も宗氏を介して彼と通商し、ひいて室町時代の末に及びぬ。

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