第559回 道具ではない

 平成15年 10月 9日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

こんな話を聞きました。
現在は、人間のことも生き物もみんな道具と同じように思っている人が
多いのではないかということです。


使えなくなった道具は、厄介物ですし、古くなった道具は新しいものと
取り替えないと使い勝手が悪いものです。


私たちが使う道具と同じように生き物までも、使えるものだけが大事で、
使えなくなったものは不必要と思う考えが一般にいき渡っているのでは
ないかと、言うことです。


こうした考え方だと、役に立たなくなったものは要らないもので、
役立つ若者だけが大事だという考え方になってしまいます。


道具であればそうでしょうが、人間は果たしてそうなのでしょうか。
役立つか役立たないかだけで判断していいものでしょうか。

大人たちのこうした考え方が子供たちにも影響してしまっているようです。
仏教では、そうした役立つか役立たないかで人間を判断しないことを
教えています。


親鸞聖人のお作りになった和讚にこんな歌があります。

平等心を うるときを

一子地と なづけたり

一子地は 仏性なり

安養にいたりてさとるべし

平等心とはどういうことか、解説では愛情を越えた怨親平等の
こころをいうとあります。


憎たらしい恨みをもつ人も親しい人も同じように扱うことができることを、
平等心といい、一子地とは三界の衆生をわが一人子とおもうことを
得る境地を一子地というと解説していただいています。


私たちは、好きとか嫌いとかで可愛かったり無関心であったり、
憎かったりしますが、仏様の方から見れば、すべての生きとし
生きるものは、自分の一人子のように可愛い存在である。


どんなに出来の良い子であろうと、悪い子であろうと、役立つ
役立たないではなく、生きていてくれること、そこにいてくれることが
嬉しいというのが、真の親心です。


自分に役立つとか役立たないとではなく、すべての生き物は仏様の
可愛い一人子という、そういう味わいが出来ると、一人子と思われて
いるこの私が、いま出来ることは何なのかを考えさせられるものです。


自分のいのちと言うだけではなく、仏様から一人っ子と思われている
自分であったと、味わいが感じられると、生きている限り精一杯この
いのちを輝かせて生きたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は10月16日に新しい内容に変わります。

 

          

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