第538回 色眼鏡なしで

平成15年 5月 15日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

岡山の小児科のお医者さん、駒沢勝先生の
講演を記録したものを送っていただきました。


広島の三次のご出身で、朝晩正信偈を家族
そろってお勤めになる、ご両親の元で育たれた
お医者さんです。


その講演の中にこんなところがありました。

『私たちは「健康がよくって、病気はまずい」と
おもっています。私たちは何故こう思うのか。
阿弥陀さんは、欲望の色眼鏡をかけずに物事を
見られます。

つまり、白いものを白いと見られるわけであります。

赤いものを赤いと見られるだけの話なのであります。
耳が聞こえないということは、私どもにとっては、
「エ耳が聞こえないの!そんなひどいことがあって
たまるか!なんで悲惨なことだ」と思われます。

それは「耳が聞こえるようにありたい」という欲望が
あるから、耳が聞こえないのが悲惨に思われるので
あります。

阿弥陀さんは「耳が聞こえるようになりたい」という
欲望がありませんから、「耳が聞こえない?あー、
そうか、ふーん」と、これだけのことなのであります。


目が見えないっていうのは、「あー、何たるひどい
ことだ」と私たちには思われますが、それは色眼鏡の
なす業であって、欲望の色眼鏡のない阿弥陀さん
からしてみると、「目が見えないか、あー、そうか、
ふーん」と、これだけのことなのであります。

目が見えること、目が見えないこと、それ自体に
特別の価値がないわけでもない、ただ平等であります。
阿弥陀さんこそ、正しい、正義なのです。


阿弥陀さんは色眼鏡をなしでありのまま物事を
見られます。それに引き換え、私たちは色眼鏡を
かけて見ます。
「これは嫌だ、あああってほしい、こうあってほしい」と
いう欲望の色眼鏡をかけて物事を見てしまいます。


ありもしない価値を幻想するわけであります。
白い紙を赤色眼鏡をかけて、「赤だ、赤だ」と
いうわけであります。
このありもしない価値を幻想することを煩悩といいます。

「煩悩の煩」は身をわずらわす、「悩」は心を
なやますといますけれど、煩悩というのは、
ありもしない価値を幻想することから始まって
いるわけであります。

医学もその根底で、ありもしない価値を幻想する
ところから始まっているわけであります。
医学だけではありません。経済学も商業学も工学も
政治学もみんな、おなじことであって、世の中の物は
みんな虚仮から、嘘から始まっているのであります。


歎異抄にあります「よろづのこと、みなもつてそらごと
たはごと、まことあることなき」というのは、みんな
色眼鏡で話が始まっているということだろうと思います。


道徳や倫理さえも、この色眼鏡がつくって
いるのであります。・・・・・


とおっしゃっています。

阿弥陀さまは、色眼鏡をかけず、ありのままに
見ていらっしゃるというのです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月22日に新しい内容に変わります。


    中央仏教学院報 平成15年3月1日号
    「医と私と親鸞」
   駒沢小児科医院院長 駒沢勝先生

真宗講座・京都新聞社文化ホール
    2002、8月4日記録より、ごく一部だけ抜粋

 

          

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