第474回 仏法は讃嘆

 
平成14年 2月21日〜

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立春も過ぎ、朝の日の出が一段と早くなって来ました。


そして、梅や桃の花も咲き、メジロのさえずりも
聞こえてきます。

本堂の前には紅梅が咲き誇っていますが、
「きれいな花ですね」と、ほめて頂く方があります。


その美しさに気づく人と、まったく気づかない人と、
人さまざまです。


ところで、ほめるということが出来る方は大変に
有り難いことです。
その美しさを感じることが出来たからこそ、その良さを感じ、
味わうことが出来る人だからこそ、ほめることが
出来たのでしょう。



仏説無量寿経の四十八願の中の十七番目の願は、
諸仏称名の願と言われます。


「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、
ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称せずは、正覚を
とらじ」とあります。
咨嗟してとは、讃嘆するの意で、ほめたたえることを意味します。


現代語では、法蔵菩薩は、「わたしが仏になるとき、
すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名を
ほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」と
あります。


ほめるということは、その素晴らしさをわかったからこそ、
ほめることが出来るのでしょう。その素晴らしさが見えない人、
理解出来ない人には、何の意味もないことなのでしょうが、
その良さが分かる人だけが、ほめることが、讃えることが
出来るのです。             


蓮如上人の御一代記聞書には、こんなこところがあります。
「仏法はみ教えを聞いて喜び語りあうということに尽きるの
である。だから十分に語りあわなければならない」と。(聞書201)

また「ただ一人いるときも、喜びの心がおこってくるのが仏法である。

一人でいるときでさえ、尊く思われるのだから、二人が会って
話しあえば、どれほどありがたく感じられることであろうか。


ともかく仏法のことについて寄り集まって話しあいなさい」と
あります。


ほめることが出来るのは、味わうことが出来ること、
その良さが分かったからこそほめることが出来るのです。


讃嘆するということは、喜びが感じられ、喜びに感嘆出来た
からこそ、讃嘆することが出来るのでしょう。


南无阿弥陀仏の六字の名号は、諸仏も称えていらしゃる
ことばです。


阿弥陀如来の素晴らしさを声にだしてほめたたえて
おられることばです。


この私も阿弥陀如来の働きに触れ喜びを味わい報恩の
お念仏申したいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、2月28日に新しい内容に変わります。

   

          

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