第469回 いただきます

 平成14年 1月 17日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

浄土真宗の最も大事な法要、ご正忌報恩講が終わりました。
妙念寺では、御絵伝を外陣の見やすいところに掛け、ご正忌の
ご文章や、御俗姓を拝読し、また、家庭用のビデオカメラで、
親鸞聖人のお姿を大写して、宗祖の御蔭でいただくお念仏
であると味わわせていただきました。


ところで、ご正忌のご文章(五条十一通)の現代語訳には、

「親鸞聖人の御正忌にあたって報恩謝徳の思いから参詣された
人々のなかには、信心を得た人も得ていない人もあるでしょうが、
信心のことはなによりも大事なことです。


というのは、信心を決定しなければ、このたびの浄土往生は
定まらないからです。
ですから信心を得ていない人は、ただちに信心を決定してください。


人間界は無常の世界であり、浄土は常住の国ですから、
無常の人間界を離れて、常住の浄土を願わなければなりません。


それで、浄土真宗においては、信心がなによりも大事であると
いうことを知らなければなりません。
ただちに信心を決定して、浄土往生を願うべきです。

世間の人は信心がなくても、ただ念仏さえしていれば浄土に
生まれるように思っていますが、それはおおいに疑わしいことです。


他力の信心を得るということは、南無阿弥陀仏の六字のいわれを
よく心得ることであり、このことを信心が決定するというのです。・・・・・」

とお述べいただいています。


信心は、私の努力でいただくものではなく、与えられた信心、
いただいた信心です。

やがてお浄土へ生まれさせていただくといういただきものです。

ところで、いただくと言えば、この生命も自分の力で作った
ものではなく、いただいた生命です。
私の人生も、環境もすべてがいただいたものです。

自分の力でどうこうしようとしても、その多くは、与えられた
ものであり、人間の力の及ぶところではありません。


私たちは、自分の都合の良いことだけを望み、自分に不都合な
ことは、起こってほしくないと考えていますが、本人の期待とは
関係なく、良いことも悪いことも必ず起こるものです。


ちょうど、食べ物の好き嫌いと同じように、好きなものだけを
つまみ食いして、嫌いなものをより分けて残し、嫌がって
いるようです。

私の好きなものだけが栄養になるのではなく、嫌いなものも
栄養になっているのです。

与えられた人生を、選り好みせず、好き嫌いいわず精一杯
生きなさい、この生命が与えられたように、必ずお浄土に生まれ
るので、心配せずに、今を生きていきないさいというのが、
与えられた人生、与えられた信心ではないかと、思います。


どんな辛いことが嫌なことが起ころうと、与えられた人生、
与えられた生命、十分に味わいながら南无阿弥陀仏を
口にしながら生きていきたいと思います。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、1月24日に新しい内容に変わります。

          

本願寺・りビング法話へ