第458回 身をいただく

   平成13年 11月 1日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

こんな文章に出会いました。

「身をいただく」という文章です。

経営についてかかれた本がブームになっています。
読んで見ると、心の持ち方の大切さが非常に強調されて
います。明るい心を持つ、感謝の心を持つ、深く反省する
心を持つ等々です。

まるで宗教の本ではないかと思うほどです。

心の持ち方に注目するようになったことは評価できる
ことですが、そこに大事なことが抜けているという印象を
受けます。

大事なのは、どうしたらそのような心を持つことが
できるようになるのか、そういう心を持てる身になるのか
ということです。

現代は「そういう身に育てられる」ことの大切さを
忘れているようです。

先月、ご法事の後にご門徒と話をしていましたら、ある方が
尋ねられました「住職さんは読経の間に何を考えて
いるのですか?」。


一同思わず苦笑されましたが、私はとても重要な質問で
あると感じて、次のように話しました。


「阿弥陀さまの前に座る時には、不思議と主語が
変わるのです。
私たちは、いつも『私は』を主語に考えています。
しかし、阿弥陀さまの前では、主語が『阿弥陀さまは』とか
『先だった父は』に変わります。

すると不思議に下の述語もかわります。
例えば『私は不幸だ』の主語が『阿弥陀さまは』になると、
述語も『不幸というが何か大事なものを見落としている
のではないのか』に変わります。

そんな思いが出てくることを楽しんでいるのです」

 どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
それはお慈悲の暖かさが、私の固い我の殻に隙間を
明けて下さるからだと思っています。

お慈悲の暖かさの前では、心がそれを感じて我の殻を
緩めるのです。
私たちは凡夫ですから、すぐに元の我の姿に戻ります。
しかし、その時の気付きが次第に育ってゆくのです。


阿弥陀さまを中心とした行為、聴聞することや合掌すること、
お内仏にお給仕することなど。そのような行為の中に、
いつの間にやらお慈悲のはたらきが届きます。

そして自分が転じられて、明るい心や感謝するこころ、
反省する心などを持てる身に育てられてゆきます。
これがとても大切なことなのだと思っています。


こういう文章にであいました。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、11月8日に新しい内容に変わります。


    大乗 13年11月号  法味随想「身をいただく」
           武田達裕師 広島県廣寂寺住職
                           精神科医

   

          

本願寺・りビング法話へ