第434回 生きていることの意味

 平成13年 5月 17日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

こんな文章に出会いました。

「本願寺の即如(大谷光真)ご門主は、伝灯奉告法要に当たって
『教書』をご発布になりました。


「教書」は、人間としての究極的な問題の解決こそ宗教の
課題であると示され、念仏者の生き方と使命を明らかに
されたものです。


その『教書』の冒頭に、

 宗教は、人間のかかえている究極的な問題、すなわち、
老病死の苦悩の解決にかかわるものであります。

釈尊が出家される機縁となったのも、その問題であり、
老病死が迫っていることに気付く時、人間は、今ここに
生きていることの意味を問われずにはおれません。

この問題を解決しようとするところに、宗教の根本的な
意義があります。


 というお言葉があります。

私たちは、つねに『今ここに生きていることの意味』を
問い続けるべきです。


宗教は、いつも『今』を問題にします。
『今のこの私』こそが問題となるべきです。

然るに私たちは、ともすると、目先の生活のあれこれに
心が奪われて、この私の『究極的な課題』に取り組むことを
忘れがちです。

そして、老いて自由が利かなくなり、病んで孤独の思いを抱き、
死を抱えて自らのいのちのよりどころがはっきりしないと、
神々を求めてさまよいつづけます。

あげくの果てに、人は、人生そのものに絶望してしまうのです。


 堂々と生きるということは難しいことでありましょう。
日常生活のなかで、何の危惧も抱かずに生きるということは、
凡夫の身にとって不可能に近いとい言えるでありましょう。

しかし、どのような状況に身が置かれようとも、苦を転じ、
かなしみを転じて、いつでも平気で生きられる場を見出すことが
出来るなら、これほどすばらしい人生はないと思うのです。


 歎異抄の第七章に、

 念仏者は無碍の一道なり、そのいはれいかんとならば、
信心の行者には、天神・地祗も敬伏し、魔界・外道も
障碍することなし。


とありますが、『無碍』ということは、私たちの人生そのものを
さまたげるものは何ひとつないということです。

しかしそれは、苦しみやかなしみがなくなるということではなく、
念仏者には、どのような苦悩をも乗り越える力が与えられる
からこそ、平気で生きてゆくことの出来る身にならせて
いただくということでありましょう。」


とあります。       

南无阿弥陀仏のお念仏の生活は、逃れて生きるのではなく、
どんなことが起ころうと、力づよく生きていける教えです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、五月二十四日に新しい内容に変わります。




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    「生きることの意味」

 〜私の人生をさまたげるものは何ひとつもない〜    より


   

          

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