第429回 仏教のこころ

  平成13年 4月 12日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
こんな文章に出会いました。


仏教は仏に成る教え、というご法話です。

「仏教」という言葉ですが、まず仏教とは「仏の教え」と
捉えることができます。インドにお生まれになった
偉大な聖者、お釈迦さまの教えということです。


次に、もうひとつ踏み込んで、仏教とは「仏になる教え」と
捉えることができます。


お釈迦さまは、お経の中に、「私の前に道があった。
そしてその道を多くの方が歩んでいかれた」といって
おられます。
ということは、お釈迦さまは、自分が作った教えを
説かれたのではなく、「仏になる道」を、初めて、
私たちに分かり易く明らかにされた方であるということが
できるのです。


 「仏」とは、悟り得た者のことであります。
「めざめたる者」すなわり、覚者という言葉で表すことも
よくあります。
仏とは、悟りの世界から、迷いの世界に住む私たちを
救うべく、いつも働きつづけていてくださる方の事をいうのです。


 そして、仏教徒ということは、仏になる道を、供に歩んで
いく仲間ということです。


 ところが、悲しむべきことに、現在では、「仏」という、
ことば自体が誤解されているのです。
例えば、テレビドラマなどで、殺人事件があった時に、
「仏はどこだ」とよくやります。一般には、仏イコール死んだ人と
いうイメージがあります。

また物が壊れた時に「お釈迦になった」あなどという人も
よくあります。その程度の認識で、仏になる道ということを
考えても、仏教がなんたるものか少しも判ってきません。

ですから「仏」の正しい意味が判らないと、仏様というものは、
「私とは全く関係のない別の世界にいる偉い方で、私がなにかを
お願いすれば、それを適えてくれるもの」としか考えず、
「何か自分の都合の悪い時だけ、勝手にお願いし、
それ以外の時は、仏を思うこともない」というようなことに
なってしまうのです。

信心をしたから病気がなおるとか、交通事故に遭わないなど
ということは、仏教の本来のあり方ではありません。


本当の信心の姿とは、己が変わってゆくことであります。
仏になる道を、私自身が歩んで行くということであります。


親鸞聖人は、その道を南无阿弥陀仏とともに歩むことを
ご自分で実践し、私たちに教え伝えていただきました。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月19日に新しい内容に変わります。


   

          

本願寺・りビング法話へ