第424回 葉隠と念仏 A

  平成13年 3月 8日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

佐賀の聞書葉隠とお念仏の教えとは、なにか共通点が
あるのではないかとの疑問を持って調べて見ましたが、
前回は恩徳讃を称えたであろう小倉の局の影響を、
葉隠は大きく受けているのではないかとお伝えしました。


  今回は、引き続き二回目ですが、葉隠の中にある、
曹洞宗の住職の言葉や、朱子学、国学の学者の言葉
として伝えられている言葉も、お念仏の教えを知った人が
意図的にその内容を変えて伝えられているのではないか
との疑問です。


高伝寺の湛然(たんねん)和尚さんの言葉として述べられて
いることなども、その一つです。


湛然和尚さんが、
「近ごろの僧侶は、武士に仏法の修行をすすめ、
 役に立たぬ卑怯者にしてしまうのは、まことに
 残念でならない。そもそも年若い武士が仏法を
 学ぼうなどというのが、とんでもない間違いである。
 武士は朝夕の礼拝の折、またいても立っても、
 「殿様、殿様」と唱えれば、その功徳は仏のみ名や
 お経を唱えるのに少しも劣らない。・・・・」 と

言ったところがありますが、これは、蓮如上人の
ご文章を知っている人が、曹洞宗の和尚の言葉に、
置き換えているようにも思えます。


例えばその一つが聖人一流章です。

 「聖人一流の御勧化のおもむきは・信心をもって
  本とせられ候、そのゆえは・もろもろの雑行を
  なげすてて・一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の
  願力として・仏のかたより往生は治定せしめたもう・・・・」

のご文章です。


現代語訳では、「親鸞聖人のひらかれた浄土真宗の
み教えでは、信心が根本です。そのわけは、自力の
はからいを捨て、一心に阿弥陀如来に帰命すれば、
思いも及ばないすぐれた本願のはたらきによって、
如来が私たちの往生を定めてくださるからです。・・・・」に
非常に近い気がします。



戦国時代には、戦いに挑み、名前を挙げて恩賞を
期待するプロのスポーツ選手のような夢が描けましたが、
平和な時代は、新たな報酬を望むことは出来なくなりました。


そこで現在の環境の中で、新たな見返りを期待せず、
精一杯努力出来る方が、人間を生き生きさせることが
出来ると伝えたかったのではないかと思います。


阿弥陀如来の恩徳を感じての、お念仏の生活は、
恩賞を期待して励むのではなく、今この私がやれることを、
精一杯やらしていただく。どんなことでも喜んで
実践させていただく、前向きの力強い教えです。

葉隠はこうしたことを伝えたかったのではないかと思います。


これは、現代にも通じる、生きがいを生みだす
教えであると感じます。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、3月14日に新しい内容に変わります。

   

          

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