月の砂漠
 
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浄土真宗の本願寺派には、仏教壮年会や仏教婦人会などの
組織がありますが、その中で仏教婦人会では 「 めぐみ 」 という
本が、年4回出版されています。
 
 今回発行の、その機関雑誌 「 めぐみ 」 に、こんな文章がありました。
「 月の砂漠 」 という、今度、新しく理事長になられた、
本願寺派総長の豊原大成さんの文章です。
 
  月の砂漠を はるばると 旅のラクダが 行きました。
     金と銀との鞍置いて 二つ並んで 行きました。
 
童謡 「 月の砂漠 」 の詩は大正12年3月、昔なつかしい
月刊誌 「 少女倶楽部 」 に発表されたそうです。
作者は抒情画家でもあった加藤まさをで、
昭和になって佐々木すぐるが曲を付け、
大人の世界でも広く愛唱されました。
皆さまももちろんよくご存知でしょう。
 
たしか昭和57年、娘の真利が高校2年生のお盆すぎ、
私たちは総勢20名余りで、シルクロードの遺跡
そして有名な敦煌千佛洞の見学に参りました。
 
妻と3人の海外旅行は娘が小学生の頃に2度ばかりあったのですが、
歴史が好きということで、誘うと喜んでついて来ました。
 
中国は、当時は大変制限が厳しく、日程の都合もあって
敦煌の仏像の見学は午前中のみ。午後は私ひとりが敦煌に引返し、
娘は他の方々と共に、さらに西の方の砂漠の遺跡に行きました。
 
一行は西安、上海などを経て帰国したのですが、
旅の終わり頃、「 どこが一番よかった? 」 と訊ねますと、
「 砂漠 」 と言います。
 
彼女は幼い時分から、私の問いに対しては、
単に名詞とか動詞とかだけで答える癖があったのですが、
この時もそうで、それにしても面白いことを言うな、
と思ったものです。
 
彼女は平成7年1月17日、阪神・淡路大震災で
祖父や母と共に死んだのですが、まだ結婚していませんでした。
家族一同が理想と認める相手が見つからなかったからです。
 
今も彼女のことを思わぬ日はありませんが、
何時のころからか、彼女と 『 月の砂漠 』 とが重なるように
なってきました。
 
私にとって今、あの二頭のラクダの片方に乗っていた
お姫さまは真利で、もう一方のラクダの王子さまは、
彼女の永遠の恋人です。
 
そして二人は月明かりの砂漠を、とぼとぼと、
私には何も言わずに、黙って砂丘を越えて、見えなくなったのです。
 
ただ、歌詞は、「 二人はどこへ行ったのでしょう 」 と
言いますが、私は、真利も、その理想の相手も、
共にお浄土の方へ向かって行ったのだと思います。
 
そして何時の日か、娘が一番好きだった、
しかし一緒に行けなかったあの砂漠へ、
私も行ってみたいと思っています。                         
 
こういう文章です。
 
あの阪神・淡路大震災では、多くの方が亡くなられました。
そして残された方のお気持ちをこうした文章で
読ませていただきますと、こころ痛みます。
 
しかし、大事な人を亡くしても、また会える世界を、
念仏で会える世界があることは、すばらしいことです。
 
思いでの歌を聞くたびに思い出すのと同じように、
南無阿弥陀仏のお念仏を聞くたび思い出すことができることを
喜びたいと思います。
妙念寺電話サービス次回は、12月25日に新しい内容に変わります。
 
 
                         ( 平成 9年12月18日〜 第256回 )