父母兄弟
 
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
いよいよ8月です。お盆の季節ですが、
親鸞聖人の言葉をお弟子さんの唯円さんが
記録したと言われる 「 歎異抄 」 に、
たいへんショッキングな言葉があります。
 
歎異抄の第5条ですが、
「 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても
念仏申したること、いまだ候はず 」 と言うところです。
 
亡くなった両親の追善供養のためと思っての念仏したことは、
いまだかつて一度もありません。
とおっしゃっています。
 
一般の人の考えている、お念仏とはまるで違った言葉に
戸惑う方も多いと思います。
 
ところがその後に、こんな言葉が続きます。

「 一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。
   いづれもいづれも、この順次生に仏に成りて、
   たすけ候ふべきなり・・・」 と。
 
これを意訳してあるもので読みますと
『 一切の生きとし生けるものは、すべて皆、
   果てしない遠い昔から、幾度となく生れかわり死に
   かわりする間に、お互いに、ある時は父ともなり、
   母ともなり、またある時は兄ともなり、弟ともなり
   あった間柄に違いありません。
 
   ですから、生けるものは、皆なつかしの父母であり、
   兄弟なのです。
 
   その誰もかもを、次の世において浄土に往生し、
   ただちに仏となって助けることができるのである。
 
   もしも、念仏が自分の努力精進して励む善行であるならば、
   その念仏を父や母に施し与え追善供養をして助けるという
   こともできましょうが、お念仏はそうではありません。
 
   ですから、ただただ自力にとらわれた心を捨てて、
   速やかに本願他力に身をゆだね、浄土に往生をして、
 
   仏のさとりを開いたならば、父や母が、たとえ六道の迷いの
   境界にあって、さまざまな生を受け、苦しみの中に沈んで
   いたとしても、さとれる者のみのもつ、超人的な救済力と、
   たくみなてだてをもって、なにはさておいても、
   まずこの世で、ことに縁の深かったものから
   救うてゆくはずです。 』 と
 
仰せられています。
 
お念仏を回向して、亡くなった父母を救おうとする追善廻向とか、
追善供養といわれるような念仏を、親鸞聖人は否定されています。
 
そしてその理由をあげて、まず第一には、父母を救うということは、
実は一切の有情を救うという意味をもつものだから、
とうてい凡夫としてできるわざではないといい、
 
第二には、念仏は、私どもの一人一人が生死を超える道として、
如来からたまわった行であって、私が造った功徳ではないから、
先に亡くなった人に施すことはできないと言われるのです。
 
こうしてほんとうにひとを救うということは、
まず我が身が自力をすてて他力に帰し、
浄土のさとりを完成した上でのことである、
とさとされているのです。
 
お念仏は、報恩感謝のお念仏、この私を仏にして
いただけるお念仏。この私の善行ではないのです。
妙念寺電話サービス、次回は、8月7日に新しい内容に変わります。
お電話ありがとうございました。
 
 
                        ( 平成 9年 7月31日〜 第236回 )