浄土は パラダイスか
 
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さて、親鸞聖人が数あるお経の中で、これこそ真実の経と
喜ばれた仏説無量寿経の下巻には、
次のように説かれています。
 
 『釈尊が、さらに阿難に仰せになる。
 無量寿仏の国に生まれた菩薩は、教えを説く相手に対して、
常に正しい法を説き述べ、仏の智慧にかなって決して誤ることがない。
 
その国土のすべてについて、自分のものだという思いはなく、
それに執着する心もない。
 
どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、
自分の思いに、とらわれることがなく、自由自在であって、
何ものも、うとんじることがない。
 
自分と他人とに、へだてがなく、人と競い、争うこともない。
あらゆるものに、大いなる慈悲をもって利益を
与えようとするのである。
 
いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、
煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけ、おこたることがない。
 
つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、
すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、
あるいは教えを愛し、楽しみ、喜ぶ心ばかりで、
すべての煩悩を滅し、迷いの心を離れているのである。』        

   
と説かれています。

 
私たちは、お浄土というと、
金銀サンゴに飾られた竜宮城のような、パラダイスのような
イメージを持っています。
 
自分勝手な望みをかなえてもらえる
理想の世界のように思っていますが、
お経をよく見ると、そうではありません。
 
 
 
私たちのように誰かに、与えてもらうことだけを、
待ち望んでいるのではなく、仏と同じように
悩み苦しむ人のために、たゆまぬ努力をする、
そんな仏の仲間にしていただくのです。
 
この娑婆の日常生活では、お浄土と反対に、
すべてについて、自分のものに執着する心が
盛んであり、やること成すこと、こだわりを持ち。
 
自分に取って得にならないことには、なかなかやろうとせず。
自分と他人と区別して、いつも人と競い、争うことばかりです。
 
あらゆるものに、損得だけを考えて、自分だけ得ようとし、
怒りや恨み盛んで、煩悩を離れることが出来ず、
なまけ、おこたることこそが、楽しみと誤解しています。
 
すべてのものが平等であることを好まず、
仏の教えを嫌い、苦しみ多く、悲しむ心ばかりで、
煩悩一杯で、迷いの心から、決して離れることがない。
 
これが、私たちの毎日です。
 
その私も、ひと度お浄土に生まれさせていただければ、
この上ない喜びの生活に入れるのです。
 
それは、将来ではなく、お念仏するこの瞬間から、
仏の仲間としての喜びがいただけるのです。
お念仏を自分で称え自分で聞きながら、
喜びの毎日を送らせていただきたいものです。
妙念寺電話サービス、お電話ありがとうございました。
次回は、5月8日に新しい内容に変わります。
 
 
                        ( 平成 9年 5月 1日〜 第223回 )