第1276回 教行信証総序 その一

 平成29年 7月13日~

親鸞聖人がお書き頂いた「教行信証」その総序の岡亮二 先生の口語訳を
(教育新潮社 教行信証口述50講

2回に渡ってご紹介します。

 私はいま、釈尊のお説きになられた仏教の根本原理が、やっと明らかになったのです。
煩悩をもった愚かなる凡夫は、自らの力では、いかに懸命に努力したとしても 無限に
広がる闇黒の大海原を渡りきることはできない。私の迷いを根源より破り、光輝く悟りの

世界に至らしめる力は、ただ阿弥陀仏の本願力のみである。

まさに弥陀の大悲の願船が、この私をして難度海を渡らしむのであり、大悲の光明が、
私の無明の闇の一切を破るのである。このまことに簡単で明瞭な 浄土真宗の真理が

私の全人格を根底より大きくふるわせているのです。

 この世に 釈尊がお生まれになりました。
阿弥陀仏の教法がやっと、この私たちの世界にとどく可能性が現われたのです。
まさにそのような折り、釈尊のまします王舎城で、王子阿闍世が、悪友提婆に

そそのかされて、父王頻婆娑羅を 殺害しようとする、大悲劇が起ったのです。

 后韋提希にとって これほど大きな悲しみはありません。我が子が夫を殺そうと

するのですから。しかも韋提希夫人は、愛する夫を救おうとして、逆に自分自身までが 
阿闍世によって、牢獄に幽閉されることになったのです。


 もはや  どうにもならない、最悪の状態がおとずれたとき、韋提希は はじめて、
自らの飾りの総て、見栄や体裁の一切をかなぐり捨てて 釈尊に この身の救われん

ことを希ったのです。

 この韋提希に対して釈尊は、韋提希を牢獄から 救出するという方法をとられませんでした。
ただ静かに牢獄の中で、阿弥陀仏の仏法を淡々と 語られるのみだったのです。
もし 最悪の場においてその人に 真の救いがあるとすれば、救われたいと希ったその瞬間、
その場において、その状態で、しかも無条件で、永遠に破れない、無上の慶びをその人に
生ぜしめることだからです。このように見ますと まさしく浄土の教えの出現は、浄土から
来た人々によって示されたことになります。

 だからこそ釈尊は  韋提希に、 阿弥陀仏の法を説き、 韋提希をして弥陀の浄土を
選ばしめたのです。真実、この法に出遇い この法を頂戴する時、すべての人々は必ず、
無限の歓喜を得しめられる。

その法こそ阿弥陀仏の名号「南無阿弥陀仏」であり、阿弥陀仏の大悲心「信楽」なのです。
韋提希は 苦悩と悲歎のどん底で、釈尊の説法によって、この念仏の教法を歓喜するに

至るのですが、ここにはじめて 阿弥陀仏の「浄土真実」 の法門が 真の意味で
実凡夫の心に届いたことになります。

  韋提希の獲信によって、実際的に 私たち凡愚の世界に、阿弥陀仏の浄土の教えが
開かれたことになるからです。したがって もし王舎城の悲劇がなかったならば
私たちにとっての浄土教は 存在しえず、親鸞が阿弥陀仏に出遇うことも、ありえ

なかったといわねばなりません。

  そうだとすれば、王舎城の悲劇の人々は まさしく、この世における苦悩の群朋を、
ひとしく救済するために、浄土から生まれた方々だと窺われ、釈尊の大悲はただ、
極悪深重の凡愚、逆謗闡提の輩に恵もうと欲せられていると見られます。
韋提希は ただひたすら 阿弥陀仏の念仏の法を 聴聞するのみで、阿弥陀仏の
大悲心を獲得し、迷いの根源である苦悩の一切を、その根底より断ち切って、もはや
破れることのない 無限の歓喜に 生かされる ことになったのです。

 それは まさしくこの凡愚が、阿弥陀仏の大悲に摂取され、阿弥陀仏と一体になっている
自分を信知するに至るからです。

次回は、教行信証総序口語訳、この続きをご紹介します。




          


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