第1261回 四門出遊 ~お釈迦さまの出家~

 平成29年 3月 30日~

仏教の話をする場合「四諦八正道」や「縁起」の話にふれます。
それは、お釈迦さまの開かれた悟りの内容が「十二因縁」であると
言われたりすることを考えると、妥当なことかもしれません。


 また、仏教とは悟りを開かれた後に説かれた内容で、「仏の説いた教え」
あるいは「仏に成る教え」と語義解釈されますから、その意味でも
「縁起」などの話をすることは当然なことといえます。


 しかし、お釈迦さまが悟りを開かれたのは、お釈迦さま自身の問いに
対する答えを見出したことです。
つまり、お釈迦さまには道を求めて出家した動機があります。


 それが「四門出遊」という伝承です。
『五分律』などにある、城の東門で老人、南門で病人、西門で死人と出会い、
北門で沙門という求道者を見たという伝承です。
老・病・死などの人間の苦しみを見て深く考えたお釈迦さまの姿は、
色々な形で伝えられています。
それが生老病死の四苦としても説かれています。

「四門出遊」の伝承には「生」がありませんが、それはお釈迦さまが
すでに生まれているからです。
今、不思議な因縁で生命あるものとして生まれた私にとって、老・病・死の
苦悩があります。


 「生死」(しょうじ)という言葉がありますが、これは「生老病死」のことです。
生まれ、老い(歳の重ね)、病み、死ぬ、それがいのちある者にとって「生きる」
ということです。
いのちある者は、老・病・死をさけて生きることはできないのです。


 今日では「生きる」とは「死なない」ことと考えている人が
多いのではないでしょうか。


 それは「死」を否定した「生」にとらわれている姿です。
そして、それは若さや健康、あるいはいのちの驕り(おごり)でしかありません。
そこに苦悩が生じます。


 お釈迦さまにもその苦悩があったのです。
それが出家の動機であり、求道の「問い」なのです。
その「問い」を解釈された「答え」が、お釈迦さまの説かれた教えです。

仏法に聞き、仏教に学ぶ場合、お釈迦さまが「生死(しょうじ)を越える道」を
求めた問いを忘れてしまっては、その教えは私に響いてきにくいだろうと思います。
「四門出遊」の主人公は「仏伝」としてはお釈迦さまなのですが、仏教徒として
教えを聞く場合には、その生死(しょうじ)いづべき道」を求めて聞く「私」なのです。

            内藤 昭文師   季刊誌『一味』掲載法話より



          


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