第1249回 「甚難信」 

 平成29年 1月5日~

 いつのころからでしょうか。「正信偈」の「信楽受持甚以難、難中之難無過斯」の
葉が頭に焼きついてはなれません。
それは、あまり長くない表現のなかに「難」の文字
が三度も使われているからです。

一方、浄土真宗の法座ではだれでもいただけるやさし
い教えということで
「易」が説かれています。いったいどう受けとめればよいかと混乱
してきます。

それは聴きかたに問題があるのですが、この一見矛盾とおもえることを、

納得したいためにわたしは浄土真宗の勉強を始めたのです。

 少し学び始めると「正信偈」は親鸞聖人が書かれたもので、その内容は『無量寿経』
によって示される依経段と、真宗の七高僧の書物をもってのご解釈を示される依釈段とに
分けられることがわかります。
その依経段のおわりに、阿弥陀如来の本願をその願
い通り受に取ることの難しさを、

 弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持すること、
 はなはだもって難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。

                      (『教行信証』「註釈版聖典」204頁)

と述べておられます。

 ここでは信心をいただきにくい人として「邪見・僑慢の悪衆生」があげられて
いますが、阿弥陀如来の本願はこのような人びとのためにおこされたと知らされます。
なぜなら

  釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・
   悪衆生
 邪見無信のものにあたへたまへるなり 
              (「唯信鈔文意」『註釈版聖典』711頁)


の文によってうかがえます。それでは本願のめあてが悪衆生であるのに、
なぜそれを受け取ることが難しいと三度も強調されているのでしょうか。


 それについては普通一般の道理をはるかに超えているので、世間の常識や自分の
こころをもって信じることがむずかしいのです。
そのためにすくいのかなめになる第十八願の法が「甚難信」なのです。
ところで邪見・驕慢の悪衆生であるわたしたちが阿弥陀仏の浄土に往生し、
ただちに仏にならせていただくことは、その法が最上であり最善であることになり、
そのことがわたしたちにとっては難信の法ということになります。


 言い換えますとわたしたち凡夫にとって信ずることができない法とは、
自力のこころによるからであって、他力によれば易く恵まれるということなのです。
そこで先にあげた「難」とは一切の自力が雑らないことをあらわし、絶対他力の法を
示しているといえます。

したがって、「信」とは本願力回向の信であり、自力をすてて他力に
よるべきことを勧めてくださっているのです。


 本願のはたらきにおまかせすれば真実の浄土に往生す
 ることが間違いないので、往きやすいのである。
                (『尊号真像銘文(現代語版)」 10頁)

の言葉を深く味わいたいと思います。
そして最初に取り上げた「正信偈」の二句を通して、親鸞聖人が本願の法に
遇うことのできたよろこびを歌っておられるとこころしておきたいものです。

            清岡隆文師著 大慈悲を学ぶ 本願寺出版社刊より


          


           私も一言(伝言板)