第1236回 条件をつけない

 平成28年 10月6日~

 大谷光淳ご門主の「ありのままにひたむきに」という本が
発行されましたが、その中にこんなところが ありました。。



阿弥陀さまは 一切の条件をつけない
すべての人をそのまま救い
逃げる人を追いかけてでも救ってくれる


 「摂取不捨」は私の好きな言葉の一つです。
阿弥陀さまの「はたらき」を表す言葉で、「おさめ取って捨てない」
という意味です。

 阿弥陀さまは「すべての人をおさめ取って捨てない」仏さまだと
説かれています。実はそのことは、すべての仏さまに共通することではなく、
阿弥陀さまの大きな特長なのです。


 ほかの仏さま神さまは「何々した人を救う」と条件がつくのですが、
阿弥陀さまの救いは、その条件をつけないところに大きな特長があります。

つまり、阿弥陀さまの救いは一切の条件がつかない救いです。

 しかも、ただ「おさめ取って捨てない」のではなく、
親鸞聖人はこの言葉に触れて、「ものの逃ぐるを追はへとるなり」と
おっしゃっています。
阿弥陀さまのはたらきに背を向ける人であったとしても、阿弥陀さまは
必ず追いかけてつかまえ、おさめ取る仏さまだと解釈されています。
さらに「ひとたび摂取してすてたまはず」、つまり一度おさめ取った人を
見放すことがない、とも説かれているのです。

 私たちは自分自身の思い、とらわれから離れることはできません。
つまり、さとりの世界とは反対のところで生活して、本来であれば、
そこからさとりへ向かって自分で修行・努力をしていく必要が
あるのですが、阿弥陀さまの救いには、その努力すらも必要がない。
阿弥陀さまという仏さまの救いは、自分自身の思いにとらわれた私たちを
「そのまま」おさめ取ってくださる、と言うのです。

 この「摂取不捨」、阿弥陀さまの救いを、亡くなった後、
お浄土へ迎えてくださることだと理解してしまうと、いま私たちが
生きている現実の問題とは離れてしまいます。
阿弥陀さまの救いが「いのちが終わった後、浄土へおさめ取る」
というのは間違いではないのですが、従来、「いのちが終わった後」
という部分が少し強調されすぎているのではないでしょうか。


 『歎異抄』では、親鸞聖人は「念仏申さんとおもひたつこころの
おこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と
語られたと伝えていますが、それは「南無阿弥陀仏とお念仏を
称えようという気持ちが起こったそのときに、すでに摂取不捨という
救いのはたらきの中にある」ということなのです。
さらに、親鸞聖人の曽孫の覚如上人は、同じことを「平生業成」という
言葉をつかって表現されています。

 ですから、阿弥陀さまの救いの中にあるというのは、
死後、浄土へ迎えてくださるということではなくて、いまを生きている
この世界の出来事として受け止めていくことになるのです。

 いま私が生きていくうえで、心が波立つような状況にあって、

お釈迦さまが説かれているこの世の真理と相容れない自分の思い、
とらわれに終始する生活をそのまま包摂してくださっているのが
阿弥陀さまの救いの「はたらき」、「摂取不捨」だという受け止め方です。

 ですから阿弥陀さまの救い、おさめ取ってくださっている
「はたらき」が、生きていくうえでの大きな安心になって、
不安に惑わされずに生きる元気が湧いてくるのだと言えるでしょう。

           PHP研究所発行「ありのままにひたむきに」より



         


           私も一言(伝言板)