第1208回 私が目覚める

 平成28年 3月 24日〜

 お彼岸、本堂での法要に多くの方がお参りいただき尊いご縁でした。
しかし、お墓参りだけで、お帰りの方々が多くおられます。

法要では 前の御門主の著書の こんなところを、ご紹介しました。

 もう40年も前のこと、
かなり熱心な地域の仏教婦人会の会員へ報恩講の意味を質問したところ、

ご先祖の恩に報いるための行事であるとの答えが全体の四割もあり、
正しい答えである 親鸞聖人の生き方は 私の生き方の上に どういう
意味があるかを聞いてゆく法要との答えは 21パーセントほどしか
無かったことを受けて、前ご門主は

 ご先祖の恩に 感謝するということは、決して悪いことでは ありません。
きょう、ここに私がこうして生きていることができるのは、ご先祖の
お蔭によることが多いことは 確かでありますし、また、いろいろな意味で
先祖の尊い犠牲の上に 今日の私があることも確かなことであります。


 そういうことを 正しく認め、そういう方のことを 忘れないで、
常に謙虚な毎日を、感謝の日暮らしをさせていただくことは、
たいへん大事なことだと思います。 

 けれども、ご先祖の恩に報いるというだけでは、本当の宗教には 
まだだいぶ距離が遠いと思うのであります。

それは、個人の私のこころの目覚めということに、少し及ばないからだ、
ということができるかと思います。 

 ご先祖の恩に感謝するということは、確かに意味の深いことでありますし、
同時にまた、ご先祖でなくても、現在生きていらっしゃる ご両親、
または近い親類の方々も、今ここに私が生きていく上で
たいへんお蔭を こうむっていることでありますから、

そういう方々の恩に報いることは、たいへん 大事なことで
ありますけれども、それだけでは、私が真実に目覚めるということには
至らないのではないかと思うのであります。

 真実に目覚めるということは 堅いことばで申しますと 
罪悪生死の凡夫であることに、私が気づかせていただくことであります。
                                       (中略)

 人間として、どうにもならない問題を もっている、また、人間が
限りある生命をもっていることも、人間としての 大きな問題かと思います。

 そういった問題は、ただ単に、ご先祖の恩に感謝するということだけでは
満たされない、より深い人間としての問題です。 

 そうであるからこそ 阿弥陀如来の願い、ご本願が、 私たちに
向けられている、ただひとつの真実は、南無阿弥陀仏である、

私たちにとって、真実はみ仏の智慧と慈悲が そのまま こめられている
南無阿弥陀仏しかない、ということに 気づかせていただくほか
ないのであります。
                        (後略)

    浄土真宗本願寺派 大谷 光真 前門主述
    本願寺出版社刊 「願いに応える人生」真実との出会いより

         


           私も一言(伝言板)