第1164回 死後の浄土より 今が大切  〜生きているものは必ず死ぬ〜

 
平成27年5月21日〜

【質問】 仏教は、今ここにいる私にとっての問題だと聞きました。
死んでから先のことよりも、今を問題にしないといけないのではないでしょうか。

命終わって浄土に生まれるという教えは、現実から目を背けさせるような教え
なのではないでしょうか。・・・・

という質問に 勧学の内藤知康先生が 次のように回答されていました。

【回答】仏教が今ここにいる私にとっての問題だというのは、その通りです。
しかし、今ここにいる私は、過去の私、未来の私と無関係に存在している

のではありません。
過去の私を振り返り、未来の私を見すえてこそ、今ここにいる私が明確に

なるのです。

 さて、今ここにいる私は生きています。
しかし生きているということと死ぬということと切り離すことができません。
仏教では、他と無関係にそのことだけで独立してあるということはあり得ないと考えます。


仏教では、親と子とが同年齢であるという言い方がされます。
不思議な言葉ですが、その人が親になったのはその子が生まれたからです。

つまり、その子が生まれてからの年数と、その子の親になってからの年数は
同じだということになります。
親とは何かを考える時に子を抜きにして考えることはできません。


 そして、生きているということと死ぬということとの関係も、どちらか一方だけを
考えることはできないという意味で、親と子との関係と同じです。
生きているものは必ず死にます。
決して死なないものは、もともと生きていないものです。

美しい生け花は生きていますのでいずれ枯れてしまいます。

造花は生きていないので決して枯れません。
生きているものは必ず死ぬというのは、逆に言いますと、必ず死ぬからこそ生きているのです。

 仏教では今ここにいる私を問題にして、今ここにいる私は必ず死ぬ身であるからこそ
今生きているのだと考えます。

しかも、善導大師が私たちの命を今すぐ消えるかもしれない風の中の灯火にたとえられたように、
私の死はいつおとずれてくるのかわかりません。


また、仏教では念死といって、自分自身の死を念死というのは、私の首を切る刀が
振り下ろされ今や首に触れる寸前という状況を、あたかも現実のように体感することだと
言われた先生がおられました。


今すぐ死ぬかもしれない私ということを見すえてこそ、今生きている私を本当に見すえたことになるのです。
医師の宣告を受けて、余命いくばくもない私ということを真正面から見すえた時に、
今生きているということの素晴らしさが本当にわかったとの体験談もあるようです。


 このように言われても、私たちは日常の目先のことに目をうばわれ、自らの
死から目を背けがちです。
そして、自らの死から目を背けるのは、必ず死ぬ私、今すぐ命終わるかもしれない私という現実から
目を背けるということです。


芥川龍之介の作品。「青年と死」には、龍樹菩薩についてのエピソードを
題材にして、その問題が取り上げられています。

 命終わってお浄土に生まれるという教えは、否応なく自分自身の死という現実に目を向けさせる
という大事なはたらきがあることを忘れてはなりません。

死後の問題を今の自分自身と無関係な問題と考える人は、実は死を今の自分と
無関係と考えているのです。 ・・・・・・

 
本願寺新報 紙上ご示談 「死後の問題」は今の問題 一方だけでは考えられない  より


         


           私も一言(伝言板)